十中八九、何か不祥事を仕出かした人間を、擁護しようとする時に持ち出される。「彼/彼女は、問題のある行動をしたが、こんな素晴らしい作品を作った実績がある」という感じで。
要するに「素晴らしい作品を作る人間は、不祥事を仕出かしたとしても大目に見るべき」と言いたいのだ。本当に「作品と人格は別物」と思っているならば、不祥事に話がフォーカスされている時に「しかし、作品は云々」などと言い出す訳がない。
一般企業で、不祥事を起こした人間の処分を論じる場で「しかし、彼/彼女は営業の成績が良くて」などと言い出す人間がいたら「今これを話し合っている時に、態々それを言う必要あるの?もしかして、営業成績が良いから不問にしようとか主張するつもりなの?」と問われる。
企業内部でパワハラやセクハラの被害が拡大するのも、加害者が仕事能力的に優秀な人間であることを理由にして見逃されていたというケースが多い。
小山田圭吾の障害者イジメが、今回のパラリンピック起用以前に取り沙汰された時、小山田圭吾のファンは「過去のことを持ち出して粘着するな。小山田やファンが不愉快になる」「音楽的な才能は別物だから、これからも小山田圭吾の音楽を聞き続ける」と主張する人間が多数派だった。だからこそ、小山田圭吾自身も「自分が過去に仕出かしたことは取るに足りない出来事」と勘違いし続けることが出来た。
小山田圭吾の音楽を聞き続けて来た人間は、小山田と一緒になってイジメに加担したんだよ。「自分が気持ち良くなる音楽を聞けるのであれば、イジメ被害者の障害者の気持ちなんて知った事ではない」と言いながら。イジメ加害者の生み出す作品をそのような人間と知った上で崇め続けてきたのだから、今でも小山田圭吾ファンを続けている人間は精神的スカトロマニアと呼ぶしかない。お前らは欲望の奴隷なんだよ。
三島由紀夫 はい論破
なにがどう論破なんだ ちゃんと解説しろ