差し伸べられた手に気がつくくらいの世の中とも向き合いは持ってほしい。
わからないではないけれど、必ず差し伸べてくれる人がいるというのは選ばれた人にだけだと思う。
おそらく僕には差し伸べられない。
まわりを見てないだけじゃないかって言われるかもしれない。
ならば聞くけど、痛くて倒れているときに「なにしてんの?」ってフザケてる場面を見てるような口調で言われてそのままスルーされることが度々あったら、まわりを見ようとは思わなくなると思うのだが、どうだろう。
コロナが感染し始め騒ぎ出された頃、一人の未成年が飛び降り自殺したのを覚えているだろうか。未成年だったと思う。うろ覚えですまない。
「こんなに苦しいならコロナで死にたかった。最後に迷惑かけるけれど、ごめんなさい。」こんな言葉が残されていたように思う。
あのときのTwitterでの言葉は「生きて迷惑かけてほしかった」「行きたくても生きられない人もいるのに」「仕事に遅れるような迷惑のかけ方はしないでほしい」ほかにもあったけれど、そんな言葉が多かった。
気がついていないだけ、と言われるかもしれない。
だけど、まわりを見ることができるほどの余裕がないのだ。そんなバイタリティもエネルギーも残ってはいないのだ。
「自分なんかいないほうがいい」と言われれば「そんなことはない」と言う人が大半だろうけれど、善意であることは否定しないけれども、言葉だけで手を出さなかったからいなくなる方を選ぶのだ。
人間はやってもらえなかったことは覚えているが、やってもらえたことは忘れる。
人間はやってあげたことは覚えているが、やってあげなかったことは忘れる。
ワガママだと言われればそうだろう。
なら、ずっといい子で我慢していればよかったのか?
壊れるまで、ずっと。
そこで差し伸べられた手はあったのだろうか。
差し伸べられる手は運だ。
差し伸べられる手は必ずなんて無い。
それだけの見渡せるエネルギーが残っているから見つけられただけなのだ。
違うだろう。
少なくとも、見ていてくれた人がいた。
それだけでもう違う。
見てくれいる人がいないのだ。
耐えられるのか?
そんな医者ばかりじゃないと言われるかもしれないが、そんな医者も多い。
信じられるか?そんなの。
まとまってない戯言につきあってくれてありがとな。
いつ僕も消えたいと思ってるし、いつ消えるかわかんないけど、読んでくれたことは嬉しく思う。
運の見極めが判ったらそりゃ乱数調整じゃん