2020-12-29

ハラスメント化」の暴力性を考える

この数年、いろいろな「ハラスメント」を呼ぶのに「○○ハラ」という言葉かいインターネット上で流行っている。

ダイバーシティという言葉が浸透して、個々人の違いを尊重しようという機運が社会に広まってきたことも関係があるのだろう。

マタハラ」「パタハラ」「カスハラ」「アルハラ」など、人が自分の正しいと思うこと(規範)を他人一方的押し付けることがハラスメントいやがらせ)と認められるようになってきた。

規範の押しつけは強制的暴力的だ。だからそういう押しつけをする人は悪い人だ。

そんなふうに認められる機運が高まってきたように見える(インターネット上では)。

そうなると、自分不快に感じたことを何でも「○○ハラ」と呼んで「ハラスメント化」する「ハラスメント作家」が現れる。

そういうことをする人の評判は総じてよろしくない。なぜか。

ハラスメント化」の暴力性に無自覚からだと思う。

単に自分不快に感じたことを不快だと言えば、それはその人の感じ方考え方を言っていることになる。

だが自分不快に感じたことをハラスメントだと言えば、他者の「カテゴリー化」が発生する。

まり、「私が不快に感じたことをするこの人は、社会不適切とされる行為ハラスメント)をする悪者です」というカテゴリーのあてはめが発生する。

ハラスメント作家」のずるいところは、他者悪者判断する責任をこっそりと自分自身から社会転嫁していることだ。

そうすることで、自分不快だと感じたか不快だという言い分を隠して、社会から広く悪と認められている行為ハラスメント)を批判する正義の味方という立場を手に入れることができる。

多くの人は「ハラスメント作家」のそのような卑劣攻撃性をしっかり嗅ぎ取るので、「ハラスメント作家」は批判される。

ハラスメント」という言葉濫用をそろそろ戒めるときに来ているように思う。

  • まぁでもそうやってカジュアルにカテゴライズされてるのを見て深刻なマジのハラスメントに気付く人も多いだろうし

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