自分で選ぶ、決める、というのは案外難しい。
例えば食べ残した食品があって「ああもう食べないだろうな」と思うけれど腐って駄目になるまで捨てられない。
食べるかもしれないから取っておくというわけでもなく、もちろん食べるわけでもなく、ただ駄目になるのを待って、それから捨てる。
まだ食べられるものを捨てるのはフードロスの観点から正しくないかもしれないがこの場合は捨てるタイミングだけの問題で結果は同じだ。
学生時代は特定のパートナーがいない限り来るもの拒まずだった。厳密には拒まず期と拒み期を繰り返していた。
来たものの中で直截要求したものやそのまま居座ったものが特定のパートナーになっていった。
押しに弱いというか「自分が折れる/譲る/我慢することで解決することはそうしなければならない」と思っていた。今でもまあ思っている。
誰もやりたがらない学級委員をやるとか足が遅いくせにリレーに出るとか、そういう地味な行動特性であったはずのこの思考は恋愛になるとバグる。基本的に1対1だからだ。
1対1ということは自分か相手か、自分が折れるということはつまり相手の要求を可能な限り呑むことにつながる。
場合によっては陰で応援などされていたりしていつのまにか自分が受け入れることでそのあたりのすべてが丸く収まるようなことになっている。
金銭であったなら許容範囲がそれなりに明確であるが求められるのは感情や身体である。身体と言っても指や四肢を失うわけでもない。
できない事情があるわけでもなく、自分以外の誰かが困るわけでもない。自分が受け入れれば解決するのであればそうすべきで、そうしなければならない。
同じ理屈で相手が望んでいないことを自分が押し付けるべきでないので、自分からは選ばない。
特定のパートナーであった相手が他のパートナーを選択するなら当然自分はそれを受け入れなければならない。
定期的に何もかもが嫌になり、何かを許容するなら同様のすべてを許容しなければいけないので、すべてを拒んだ。
拒んでいた何かをうっかり許容してしまった時、同様のすべてを許容しなければ理屈に合わないので、また来るもの拒まずになった。それを繰り返した。