2020-09-28

anond:20200926160033

自分で選ぶ、決める、というのは案外難しい。

例えば食べ残し食品があって「ああもう食べないだろうな」と思うけれど腐って駄目になるまで捨てられない。

食べるかもしれないから取っておくというわけでもなく、もちろん食べるわけでもなく、ただ駄目になるのを待って、それから捨てる。

まだ食べられるものを捨てるのはフードロスの観点から正しくないかもしれないがこの場合は捨てるタイミングだけの問題で結果は同じだ。


学生時代特定パートナーがいない限り来るもの拒まずだった。厳密には拒まず期と拒み期を繰り返していた。

来たものの中で直截要求したものやそのまま居座ったもの特定パートナーになっていった。

押しに弱いというか「自分が折れる/譲る/我慢することで解決することはそうしなければならない」と思っていた。今でもまあ思っている。

誰もやりたがらない学級委員をやるとか足が遅いくせにリレーに出るとか、そういう地味な行動特性であったはずのこの思考恋愛になるとバグる基本的に1対1だからだ。

1対1ということは自分相手か、自分が折れるということはつまり相手要求可能な限り呑むことにつながる。

場合によっては陰で応援などされていたりしていつのまにか自分が受け入れることでそのあたりのすべてが丸く収まるようなことになっている。

金銭であったなら許容範囲がそれなりに明確であるが求められるのは感情身体である身体と言っても指や四肢を失うわけでもない。

できない事情があるわけでもなく、自分以外の誰かが困るわけでもない。自分が受け入れれば解決するのであればそうすべきで、そうしなければならない。

同じ理屈相手が望んでいないことを自分押し付けるべきでないので、自分からは選ばない。

特定パートナーであった相手が他のパートナー選択するなら当然自分はそれを受け入れなければならない。

定期的に何もかもが嫌になり、何かを許容するなら同様のすべてを許容しなければいけないので、すべてを拒んだ。

拒んでいた何かをうっかり許容してしまった時、同様のすべてを許容しなければ理屈に合わないので、また来るもの拒まずになった。それを繰り返した。

最初からすべてを拒めたり、あるいは選びたいものだけを選べていたら、もっと有意義時間が過ごせたような気がする。

恋愛はそれ以外の活動障害となるので、いまだに苦手だ。

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