彼女は私の同期にあたり、同じ部署で働いていた。お昼に数名の仲間とランチに行ったり、プライベートで出かけることもあった。
入社して2年ほどたった頃、彼女は私に好きな人ができたこと、その相手がSという男であることを打ち明けた。
Sは別の部署で働く同期だった。私は彼と入社当初から知り合っていて、彼が片想い中であることを知っていたため彼女には「そうなんだ、がんばって」などというありきたりな返答しかできなかった。
彼女は私がSと仲が良いことを知っていたが、「仲を取り持ってほしい」などと言ってくることはなかったしする気もなかった。私は彼と友人であり今までの距離感を不自然に変えることは避けたかったからだ。
しかし2年の付き合いともなると距離も縮まり、その距離感によって彼女は私に怒りを抱いた。
話は変わるが私は昔から希死念慮に苛まれている。本気で死にたいと何度も思ったし泣いて夜が明けることもあった。
そしてそんな暗い胸の内をよくTwitterで呟いていた。何人かの友人だけと繋がっているだけのアカウントだったが、そのフォロワーの中に彼女も含まれていた。
彼女は私への怒りを、私に見えるように呟くようになった。そして出てきたのが冒頭の言葉である。
実際には私の名前を挙げることはなかったが、誰が見ても私だとわかる文面だった。
この言葉を見たとき、私は「それは違うな」とぼんやり思った。「死にたい」と確かに私は思い、それを呟いた。
彼女曰く、本当に死にたいと思うならとっくに死んでいるだろうという。「死にたい」と呟くだけで今も生きている私は本当は死にたいのではなく「かまってほしい」だけだろう、ということだそうだ。
彼女に言わせてみれば私は「死にたい」と思いながら死ねない死に損ないのかまってちゃんなわけだが、この言葉がずっと引っかかるようになった。
私にとっての「死にたい」には何が隠れているのだろうと考え、至った答えは題名の通りである。
私は救われたいのだ。
この漠然とした不安から。自らへの嫌悪から。どうしようもない自分から。
自分を好きになることもできず、未来に希望すら抱けず、ただ日々をこなし「死にたい」と思っても踏み切るほどの勇気も出ない。結局私は「死」を選びきれない。
そんな現状から脱したいからこそ「死にたい」と宣うのだと思う。
他人にそれを望んでいる点で言えば「かまってほしい」という言葉もあながち間違いではないのだが。
そういうことをこの数年間考え続けてきた。いまだに死にたいと思うしTwitterで呟くこともあるが、もう彼女とは縁が切れているし他の友人はそんな私を心配してくれるいい子たちのためTLはとても平和だ。