私は、就職後に発達障害(ADHD・LD)の診断を受けた。診断後も一般雇用で行政機関に勤めている。
発達障害があると聞くと、「そうは見えない」「全ての人が、ある意味発達障害者と言えるよ」と返答する方もいるが、私個人はこの言葉に意味を感じていない。
私は、自分は黒と白の間を行き来していると考えている。自分は、発達障害者(黒)である時と、発達障害者でない(白)時があるのだ。
障害とは、その特性が原因で社会的な困りごとがある時に、初めて障害になるのだと思う。どんなに極端な特性があっても、それで困っていないなら、あくまでそれは発達「特性」に過ぎない。(困っていない相手に、「お前は発達障害者だ!」と周囲が決めつけることも無意味だとも思っている。)
私は両親に、自分が発達障害の診断を受けたとは伝えていない。遠方に住んでいる両親との関係において、その特性が困りごとにはなっていないので、両親の前では発達障害者ではないと考えているからだ。だから、わざわざ言う必要はない。
私が発達障害者になるのは、困りごとがある時で、それを話すのは配慮してほしいことがあるからだ。
例えば私は、数を数えることも足し算も大変に不得意だ(LDがあるため)。だから、上司にその旨を話している(本当に配慮してもらえているかは不明だが、今のところお金の管理などの担当になったことはない)。また、定期的な通院や服薬の副作用、二次障害によって体調が悪くなることが多いため、上司が変わるたびにその旨を伝えている。一方で、人前で話したり、資料を作成したり、企画をすることは得意だ。そうした仕事の担当だと、高い評価を受ける。
このように、私はその時々の局面で「全く仕事ができない人」になったり、「めちゃくちゃ仕事ができる人」になる。そこで、「こんなに能力が高いのに、そんな単純な作業もできないの?」と言われても困る。それは、その仕事では発達障害者ではないだけだからだ。
私は、発達障害があることを悪だとは思っていない。なのに、その事実を否定されてしまうと、私の悩み(配慮して欲しいこと)も否定されたように感じてしまう。
人は、ずっと障害者でいなければダメなのだろうか?ずっと鬱でいなければダメなのだろうか?ずっと弱者でいなければいけないのだろうか?
私は、常に発達障害者でいなければいけないわけでも、常に定型発達者でいなければいけないとも考えていない。鬱でいるときの自分も、楽しい気分でいる自分も、両立できるのではないだろうか。
>障害とは、その特性が原因で社会的な困りごとがある時に、初めて障害になるのだと思う。 というのは全くその通りだと思う。 しかし、まさにその「困りごと」が実際にあるにもか...