2018-08-10

たまたま戦争がおきていない」73年のそのいちばん端っこ

今年も夏がやってきた。テレビをつければ慰霊式典の中継が行われている。

今年で73年目だという。

この時期になると、テレビでは突然戦争体験ドキュメンタリーや、戦時下舞台にしたドラマ放送しはじめる。これはもうすっかり夏の風物詩になってしまった。

多くの家庭に設置されているテレビを通して、戦争を知ってもらう。

それ自体は悪いことではないと思う。

もう終戦から73年が過ぎた。生の戦争を知っている世代は減っている。

いずれ戦争を知っている世代はいなくなる。

その前に、戦争を知らない世代が、戦争を知っている世代情報を共有すること。

それは絶対必要なことだ。

テレビから流れてくる情報は、私たちに様々なことを教えてくれる。

「この国には戦争がありました」

「この国には兵隊に行った人が大勢いました」

「この国には戦争のなか逞しく生きた人たちがいました」

知っておかなければならないことだ。

でも、テレビ報道は、いつもその事実を伝えただけで終わってしまう。

戦争悲惨ものだ」

戦争は繰り返してはならない」

ただ、それだけで終わってしまう。

戦争は悲しいもの」。そこで思考ストップしてしまうのだ。

戦争をおこさないために、私たちには何ができるのだろう?」

どうしてそういう話にならないのだろう。ずっと不思議だった。

今でも不思議に思っている。

私は自分のいる国が「民主的な国」だと学校で教わってきた。

民主的な国は、国民なら誰もが政治に参加できる国。

その代わり、国の決定の責任は、政治家だけではなく、すべての国民かぶさってくるものだと思っている。

この先日本戦争を起こさないとは限らない。

たまたま戦争がおきていない」73年のそのいちばん端っこに、私たちは生きている。

いつ戦争が起こるかわからない。

毎年戦争体験ドキュメンタリーを見て、間接的ながら戦争を知った私たちは、戦争を避けるために最善を尽くさなければならない。

でもどうやって?どうやったら、戦争を避けられるの?

民主的な国」に生きている私たちは、「どうやったら戦争を起こさないで済むか」考えなければいけない。

それなのに、誰もそんな話はしない。

私が知らないだけで、本当はみんな、そういう話をしているのだろうか。

戦争は、独裁者が起こすとは限らない。

言葉の限りを尽くして、それでもどうしようもなくなったその先で、戦争は「起こってしまう」。

独裁者がいなくなっても戦争はなくならない。

私たちは、日本を「戦争しか選択肢がなくなってしまった」国にしないように、日々を積み重ねなければならない。

終戦の日は、毎年訪れる。

きっとこの先も、終戦の日が近づくと、テレビでは戦争を伝える番組放送されるだろう。

日本の夏は、「戦争悲惨さを学ぶ夏」から「どうやったら戦争を起こさない国にできるか、みんなで考える夏」へ、一歩前進しても良いのではないだろうか。

来年も夏はやってくる。

どうか来年も、「たまたま戦争がおきていない」74年のそのいちばん端っこに、私たちが生きていることを願って。

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