底辺が底辺を再生産する、つまり子供の生育環境がその後の人生を決定するというのは傾向として正しいと思う。ただ、底辺の中にも成り上がって金持ちになったり成功する人が一部いるのも事実だ。
それももちろんあるだろうがおそらく一番大きな差は「自分が底辺だと気付けるかどうか」そして「底辺から抜け出したいと思うかどうか」である。底辺から抜け出す努力するにはまず自覚と自分の置かれている環境の否定が必要だからである。
親が底辺だとその子供はおそらく自分の家が底辺家庭であることに中々気づけない。周りの同級生との暮らしぶりの違いを目の当たりにして自分の家庭の底辺具合に気づけたとしても教養や勉強に価値があるとは中々思えないようになっている。底辺の親はそのルサンチマンから「勉強ばっかで来てもいい大人にはなれない」などと子供に繰り返し説くからである。「俺みたいになりたくなかったら勉強しろ」と言える底辺の親はなかなかいないのではないだろうか。それゆえ底辺の環境で育った子は今の自分の幸福を底辺環境のなかに見つけることとなり、環境に甘んじることとなる。底辺が努力してないのは傾向として正しい。ただそもそも底辺には努力する理由がないのだ。
これに対して底辺の親のもとに生まれ、そこから抜け出す努力をしたのになんの経済的援助も得られないなどの理由で結局抜けられなかった人は本当に気の毒だ。ただそのように結果的に底辺になってしまった人は全底辺のうち一体どれほどの割合で存在しているのだろう。自己責任論に怒り環境の影響の大きさを主張する人々が想定する底辺は「抜け出したかったけど抜け出せなかった人」であろうが、それは実際の底辺の多数派とは重ならないのではないだろうか。インテリ層が自分の成功を可能にした環境の影響力の大きさに無自覚なように、多くの底辺も、そもそも自分が本気で底辺から抜け出そうと思ったことがないことを自覚できず自分を「抜け出そうとしてそれが叶わなかった人」に重ね合わせてしまうのだ。だから多くの底辺は怒るべきでない問題に対して怒りを感じているのだ。
たしかに抜け出したいけど環境のせいでそれが困難な人たちに対する対策はたしかにもっとあっていいと思う。そして底辺問題を本気でどうにかしたかったら底辺の自覚を底辺に持たせるような工夫が必要である。それが社会全体の幸福を増大させるとは必ずしも思えないが。