自殺したいということを、なぜ人に言いたいのか自分でも分からない。
実際には、大抵は悲しい顔や戸惑う顔をさせてしまうので、友人や親族には死にたいとは言わない。
以前情緒不安定な顔を見せた事がある人達は今、私に対して、みな安心した顔をして接してくれる。色んな話をしてくれる。
普段から死にたいとは思わない人の付き合いを擬似的に感じているような気がする。とても世界は明るい。自分が選んだ家具を置き、選んだ食事を食べるような明るい未来がある気がする。
前に、死にたい、私は死ぬべきだと思う、と言ったことのある人に、気が向いて、死ぬのをやめた、と言った時、その人はほっとした、と言って、特には何も言わなかった。その人は間違っていないと思う。
自殺の計画をやめても、死ぬべきだという気持ちに変わりはない。
これは死にたい人にはあまり読んでほしくないけれど、自分は死ぬべきだと思っている人間、死にたいと思っている人間は死ぬべきだと思う。
第一に、これは感覚でしか説明できないんだけども、人を大事にできなくなるから、どのような形であれ人を傷付ける事に鈍感になる。生きているだけで傷付けてしまう。
第二に、人と繋がれば悲しむ人が増える。新しく人と繋がるべきではない。だけれども生きている分だけ人ととの接触は増えていく気がする、自分は寂しくて結局一人で生きていけないから人と話してしまう。悲しみの総量は少ない方がいい。そう私は思う。
なるべく早く死ぬのが望ましい。自殺した理由がわからない、と言われる程に誰にも不安を感じさせないまま死ぬのが特に望ましい。
私は孤独になるべきだ、孤独死ないしは自死したあと一月は誰にも見つからず、できれば法制度しか私の生死を追いかけないような状態が望ましい。誰からも忘れられたい。
自分は死ぬべきという気持ちを持ちながら生きているのは私に誠実でない気がしてきている。
自殺は、ただ一つ私に可能な計画で、自己実現で、選択ができる希望のような気がする。
私が死ぬのをやめたのは、自殺というのは文字通り死ぬほど苦しいものなのではないかとふと思ったからだ。でもそれと私が死ぬべきだと思う事には何も関係がない。
思ったことを口に出したくなるのに、そんな深い理由はないんじゃないか おぼしき事言はぬは腹ふくるるわざなり、っていうし 君は死にたいと思った あるいは、もっとモヤッとした名...