facebookを月曜の朝に見ると、とにかく子供の写真がやたらと目に付く。
もちろん、facebookに書ける内容なんて限られているし、友達全部がそうではないが、にしても、俺らが子供だった頃にはそこまで親は子供を愛していたのだろうか?
子供の数が少なくなって、子供を持つ人が少なくなって、そもそも結婚できる人が少なくなったからこそ、子供を持てるってこと自体が昔は当たり前だったのが、今は逆にそれが幸せってことなんだろう。
ネットだけじゃなくて、子供の成長記録を写真集にするサービスだったり、子供を世界に通用するエリートに育て上げる塾だったり、幸せな子供を中心とした家族の幸せをますます応援するサービスに、幸せな親はカネを使うことをいとわない。
そんなに余ってるカネがあったら被災地にでも募金してよ、まったく。
で、子育てが大変だ託児所を作れ独身には課税しろ、と、いい気なモンだ。
・・・ちょっと話がそれてしまったが、子育てのインフレは何もカネだけではなく精神的な領域にも及んでいる。
本当に今の子供は愛に溢れている。
ぞんざいに育てられていない。
それだけに、無菌室っぷりがハンパない。
何をするにも親の言う事をよく聞くし、親の決めた人生のコースに疑問を抱くことすらしない。
恐らく、会社の入社式にまで参加したいという親も出てくるんだろうけど、それはバカ親ではなくて、幸せ過ぎる家族のイベントとしてそれはむしろ当たり前のことなんだろう。
一方で、もちろん誰もが幸せな家庭に恵まれるわけでもなく、愛されない子供ももちろん存在する。
facebookに書かれる幸せな家庭の風景も年月を重ねるにつれて、知らないうちに件数が減ってくることだろう。
こうして、愛を与えられ続けた子供たちと、どこかで愛が止まった子供たちと、異なる世界を歩んでいる内はいいが、いざ等しく社会に放出された時に、その社会というものはどうなってしまうのか?戦後の日本には階級社会は存在しないと言われ続けていたが、またこの子供の愛され方の格差によって、階級社会が形成されるのだろうか?
おカネでもなく地位でもなく、誰にでも平等だと思われていた愛により階級が生まれる予兆を感じながら、facebookに映る子供たちの笑顔を眺める日曜の午後・・・
目の前の箱に向かってるだけで、隠棲した賢者に「なりきり」が出来るんだから、現代ってのはお手軽だよね。
自分は今のほうが愛にあふれているとは思わないなぁ。 そういう人が増えているって言うよりかは、情報の発展で、そういった「表現の場」が増えた事によって昔より目につきやすくな...