レスありがとう。
なんかもう、鬱っぽくなってきてて、愚痴めいているかもしれんのに、すまないです。
もう、小さい個人レベルはどこも相手にしてくれない。
検査値も異常値出てるし、何より症状が長すぎるから
(それでも見てもらえば時間も金もかかる)
”有名な所”は、結局どっちなんだろう?
他と違うの?同じなの?
何に有名な所を探せばいいのかさえ、わからんのだけどね。
だから、せめてプロ意識を持って、他所を勧めてほしいんだ。
できもしないなら、ちゃんとした所へ手放してほしいんだよ。
一般庶民は金と時間なんて無尽蔵に持ってないよ。
通院で休みまくったおかげで、そろそろ首が危ないよ。
一日まともに働いた方が、検査の何倍も楽だから、
どうにかなるのを待たれているんじゃないのか。
だから、その努力によって得た成果に対する評価が、最大化を基準とするとそうなるっていってる。
最優秀者じゃなくても成果に応じてもらえるというなら、最大化ではなくなることになる。
その場合、もらえるかもらえないかのラインが設けられることになる。
それじゃ何故いけないのか?ってこと。
そして、別の話だけど、「経営者が従業員に対し、「賞与など基本給以外は最優秀者のみに支給する」といってる」のは、会社の利益にならない(と思われる)わけだから、元の論理で言えば国益に反するというわけだよ。
その結果、最優秀者以外の社員が去ったら、会社の利益に反しないか?
最優秀者の社員が、会社の看板だけで会社の純利益全体を叩きだしているというのであれば、確かにその最優秀者だけ支給されるのが会社の利益といえるだろう。
でも、会社の規模が大きければ大きいほど、個人の力は希釈されるよな。
最初から大したもん持ってなかったんじゃね?
超えちゃいけない一線は超えてない
都内在住実家暮らし独身男性正社員中小企業在籍事務職30代前半夢無し希望無し嫁無し友無し。
ごめんよこんな息子で。頼むから子供に希望を持たないでくれ。自分だって自分に希望無いだろ。
蛙の子が孵っちゃったんだよ。パパン、ママン。
そもそも自分が嫌いだろ、自分に自信ないだろ。自分が一番であり続けたいんだろ。
自分の自信の無さを押し付けてきておいて今更、『体力が無いから今のうちに結婚相手見つけて結婚してくれ?』
さもしいことを、ひどいことを言うつもりはないが虫が良すぎないか?パパン。
年取ってようやく本音をさらけ出すようになってきたもんな。
それじゃあよ、ますます結婚なんかする気がなくなると思うぞ。
はなからするきも無いがな。
最低だなおいら。
親に対してこんなこと考えているなんて。
年寄りがよく『昔は良かった』って言ってるけど良かったのは『自分の若さ』だよ 昔は決して良い時代ってわけじゃない
単純に言えば『健康に過ごせていたあの頃』なんだ 今に君たちにもわかる 老いて行く恐ろしさが
田中、竹下、小沢という旧自民党なわけで、どっちかというと、旧体制側の人間なんだが・・・
追いかけられているのも、ダム・ゼネコンという超旧体制なんだが・・・
小沢さんに関しては、霞が関の旧新体制が、小沢さんと言う旧旧体制を未だに追いかけ続けている
というのが正解。この二人は性質が別。
そうか?俺は診療趣旨で明らかに反対のことを言ってくれそうな病院を探してから行くという手段をとるので
わりと、毎回、違うぞ?
欝などの時は、極力患者の言う事を重要視します。という趣旨を掲げている所と、有名な所とはちがったし、小さい所のおっちゃん医者もちがった。同じ感じのところはあまり当たらないなぁ。
比較的大きいと言うか、有名なところは似ているかも
成果を最大にするだけだったら、究極は、借金しまくって国民にばらまく。という手もあるな。何が成果か?という定義によるけど。
国益の最大化というのは、議論がちがうとおもう。多種多様な国益の面積だけ増やしてもしょうがない。
税金の額を上げれば、高福祉になるし
どちらが良いのか?それとも、税金と福祉のコストパフォーマンスを最大化させるのか?etc.
人によって、最大つまり、低税率が最大と考えるか、高福祉を最大と考えると、CPを最大と考えるか異なるし、これは、個人の主観の問題も含まれるし
個人の主観、趣味趣向は人権として保護されるので、結論は出ないという結論が出ている。
なので、国益の『最適化』。最大化しても、それは、その時の、最大政権を支持する国民にとっての最大化であって、全国民ではない。
というのは、どうだろう?
自分がそうなる前は、セカンド・サードオピニオンでいいじゃん、って思ってたんだよ。
実際そうした。
何度も泣き寝入りする(させる)手段でしかないんだよ。
同じ事をあっちでもこっちでも
毎回毎回やらされて
前もやったと言ってもうちはうち、
効果ないって言ってもうちはうち。
仕入れた情報や知識なんて、何にも聞いてもらえないよ。
その次はもっと増えて行く。
患者は折角移ったんだから…って我慢して、
また鴨状態なんだよね。
最後に諦める。
超伸びてるねwww
俺は今27歳で今まで付き合った人数は5人、
今まで生きてきた中で
今の嫁と、それもわりと最近に一回あっただけだよ。
超個人的な感想なので正解は俺らだけのものなんだろうけどその時わかった。
相手をただ喜ばせるだけのセックスはできる。
でも、お互いにもう死んでもいいと思えるほどのセックスは、
やっぱりお互いのことを深く知っていて
なおかつ自分が喜び、相手をそれ以上に喜ばせようと
二人ともが心の底からそういう思いでないとできないのではないかと。
それ以上は出てこない気がして気持ちの距離は遠ざかりつつある。
世の中知らない方がいい事もあるということで。
http://d.hatena.ne.jp/dondoko9876/20100118/1263799034
「日本の韓国統治は善政か否か」問題で久しぶりに面白いエントリーを読んだ。正直、日本の韓国統治は悪だ、という議論は感情論ばかりが横行するので辟易していたのだが、こういう数字に基づいたエントリーが出てくるとちゃんと議論になる。実際、コメント欄でも、すれ違いはあるものの真っ当な議論になっているように思う。
でもさ、『ちゃんと学術的に認められた歴史書を読み直されるよう、お勧めいたします。』って書くならさ、もう一歩踏み込んでもいいと思うんだ。学問の主戦場たる英語の論文の数々に。ここ20年間、様々な定性定量分析が積み重ねられてるのに、それを無視するなんて余りにももったいない。
結局、日本も韓国もこの件ではバリバリの当事者な訳で、どうしたって中立的な議論は出来ない。純粋に学術的に中立的な議論をしても、その裏の政治的思惑を勘ぐられるのがオチだ。なら、第三者たる欧米の、それも世界最高峰の大学で教鞭を執る学者の議論を参照することは決して無意味な事じゃないはずだ。
それに、10年前と違って、我々はほぼ自由にこれらの議論にアクセスできる。Google Scholarで”Japan Korea colonization”を検索してみるだけでいい。10回くらいクリックすれば議論の形はある程度つかめてしまう。いい時代になったもんだ。
で、2時間ほど仕事をさぼって論文を流し読みした結論。それは、
ということ。ついでに言うと、欧米の開発経済学者と何度か話した時も、この結論をある種自明のように語っていたので、現在でもこのコンセンサスは有効であるように思う。私自身は門外漢なので断言は出来ないが。
日本の植民地政策の総論として、大体平均的な見解になっているのは、Bluce Cumings(シカゴ大教授)の以下の下りだと思う。
エトウ教授は日本の悪徳はヨーロッパの植民者のそれと何ら変わるところがなかった、と述べている。それは正しいのかもしれないが、一方でその美徳はヨーロッパ人のそれとは全く異なっていた。日本人には、信じるに足る「自らを正当化する神話」は存在しない。少なくとも何人かのフィリピン人は、アメリカの植民地主義は独立というゴールへと至るための良き教師であると信じていたが、日本は良き教師ではなかった。少なくとも幾人かはイギリスはインドにとって自由民主主義の良き模範であったと信じているが、日本は良き模範でもなかった。日本がもたらした美徳の数々は、倫理的には(philosophically)正当化するのは難しいが、実際的には(practically)容易に受け入れられるものだ:軍事的成功、強力な国権の運用、急速な経済発展、そして近代的な工業セクター。それゆえ、1945年に韓国人達は日本の植民地主義に対する全面的な拒絶を唱えて解放を謳歌したが、その一方で日本がもたらした様々な影響からは抜け出すことが出来ないという、二律背反に直面することになったのである。
ちなみに、このCumings教授は北朝鮮よりの言動が過ぎると批判を受けているくらいであって(英語のWikipedia参照)、決して日本よりのスタンスを取っているわけではない。むしろ、日本の植民地政策は朝鮮が政治的に分断される一因となったと書いている(人となりの雰囲気はこの辺りのブログで分かるかもしれない。http://d.hatena.ne.jp/uedaryo/20090208/1234060826)。それでもなお、36年間の日本の経済政策については、むしろ肯定的な言及が多い。日本の植民地政策についての興味深い言及もあるので、興味のある人は以下のリンクを読んでみると良いだろう。英語は平易なので、特に苦労なく読めるはずだ。
B. Cumings (1984), “The legacy of Japanese colonialism in Korea”, RH Myers and MR Peattie eds., The Japanese Colonial Empire: 1895-1945, Princeton UP.
http://brightrising.com/pdf211/week10/Bruce%20Cumings%20%27The%20Legacy%20of%20Japanese%20Colonialism%20in%20Korea%27%20-The%20Japanese%20Colonial%20Empire-%20p.%20478-496.pdf
似たような議論としては、
LG Reynolds (1983), “The Spread of Economic Growth to the Third World: 1850-1980”, Journal of Economic Literature.
G-W Shin (1998), “Agrarian Conflict and the origins of Korean Capitalism”, American Journal of Sociology.
CJ Eckert (1991), Offspring of Empire, U of Washington Press
などがまとまっている(最後のは読んでないが)ので、興味のある人は参照して欲しい。Google scholarで検索すれば他にも沢山出てくる。個人的にはReynoldsが俯瞰的にまとめていて良いと思う(アクセス権がないと入手が困難だが)。
さて、ここからが本題だ。欧米の碩学達はなぜ「日本の植民地政策は有益であった」と結論づけたのだろう。正直、上のリンクを読みやがれの一言で済ませてしまっても良いのだが、一連の議論がある程度まとまっている論文を見つけたので、以下で抄訳してみたい。プリンストン大学のAtul Kohli教授の論文なのだが、まず彼は94年に「日本の植民地政策は、戦後の韓国の経済発展に重要な貢献を成した」という論文を発表したのだが、これにS. Haggard(UCサンディエゴ校)、D.Kang(ダートマスカレッジ)、C-I Moon(延世大学)の3人が「いやいや日本の影響なんてたいしたことないから」という反論論文(以下HKM)を寄稿した。これに対して更に「いや、君たちの言うことはおかしい」という再反論をKohliが行った、という流れになっている。この最後の再反論の論文が短くまとまっていて論点も明確なので、これを取り上げてみることにしよう。
HKMではKohli論文に対して4点の反論を試みている。まず、日本統治下での韓国の経済成長と、終戦後の韓国の経済成長とを過大評価しているという点。『私の原論文では、主によく知られたS-C Suh (1978)のデータに基づいて、植民地時代の米の生産量は年率2%相当の伸びを示しており、その相当量が土地1単位辺りの収量の増加によると議論している。生産性の向上は、日本政府による計画的な灌漑、品種改良と肥料の使用を反映したものだ。
日本の行動が利己的なものであって、多くの韓国人はこれらの植民政策の恩恵を受けていなかったという不快な事実に関係なく、安定的で近代的な農業生産の成長は植民地主義の歴史の中でほぼ無類の成果であった。この経験は韓国を他のアジア諸国(除日台)から一線を画す存在にした。そして、この経験はその後の韓国の経済成長へ貢献する一要素となったことは間違いない。』
HKMはこれに反論を試みているが、『HKM自身が提示した資料によれば、1911年から38年までの植民下の韓国の農業成長は3.17%増加しており、私の提示した数字よりも更に高い。』Dehliはなぜ彼らはこの事実をちゃんと議論しないのかと指摘した上で、もう少し細かい議論をしている。さらに他の研究を引いて、Myers and Yamada (1984)は1920年から40年までの農業生産の伸びを年率1.15%、S-C Suh (1978)は穀物生産が25年間で45%、米は30年間で100%増加したと推計しており、『これらのデータを前にして、植民政策下の韓国の農業生産と米の生産が植民経済の基準から言ってかなりの増加を示したことを誰が疑うのだろうか?』と問うている。
『より重要なのは、これらの、特に米の生産の成長の源泉は何かと言うことだ。Suh (1978)とMyers and Yamada (1984)の双方が、この時期に耕地の大幅な拡大や、農業への労働者の大量投入は見られないと指摘している。これらが強く示唆するのは生産性の向上である。HKMは生産性の向上はあくまで緩やかなものに過ぎなかったと主張するが、30年間で60%もの生産性の向上(Suh, 1978)を緩やかと表現するのは不可能だ。籾付米の栽培パターンの変化は韓国農業に“生物学的革命”が起こったことを示している:品種改良された種籾を使用する水田は倍に増え、肥料の投入量は10倍になり、灌漑された農地は年率10%近いスピードで拡大し続けた(Suh, 1978, Myers and Yamada, 1894, Ishikawa, 1967)。
これらの改善は明治時代の農地革命の日本から韓国への計画的な普及の成果(Suh, 1978, Myers and Yamada, 1984)であった。日本の植民地政府の韓国農業改革の努力によって、“近代的な農業革命が開始され”、日本や台湾と同様に、“これはアジアにおける近代農業改革の端緒となったと言って良いだろう”(Myers and Yamada, 1984)。更に、他の研究者達が指摘するように、この革命は終戦後も引き続き行われた。これでもなお、「ユニークな植民地の運営は大戦後の韓国の経済発展への足がかりとなった」ことを否定することが出来るのだろうか?』
日本の工業政策の影響については、『HKMは3つの伝統的な-そしてあまり説得的ではない-理由から反論している。曰く、工業部門は殆ど日本人が所有していた。曰く、その殆どは北朝鮮に位置していて韓国の経済発展には関係ない。曰く、どちらにせよ、朝鮮戦争であらかた破壊されたので関係ない。
日本人への所有権の集中という最初のポイントは説得的とは言えない。韓国の1965年以降の経済成長においても、企業の所有権はかなり集中していた。こっちは問題ではないとでも?日本の資本について言えば、「外国資本ニ支配サレタ工業化ハ真ノ工業化トハ言エナイ」的な議論は、既に説得力を失って久しい。第2に、工業資本が朝鮮戦争で破壊されたという点は私が原論文で指摘済みの点である。繰り返すが、当時の工業資本の約半数は南朝鮮にあったのである。さらに、南朝鮮にあったのは繊維工場のような軽工業資本であって、北の重工業に比べて輸出産業としては離陸しやすかったはずである。』
Kohliは、更に反論として、脱植民地運動と朝鮮戦争の破壊からの急速な回復は、韓国人が近代工業を運営した経験があったからこそであること、(2) 工業資本が戦争で破壊されたのは事実としても、知識は消え去らないこと、近年のRomer (1993)などの内省的成長理論においても知識の重要性が強調されていること、などから、日本の植民地時代の「正の遺産」は韓国の経済発展に寄与したとしている。
政治プロセスの話をしているのだが、「てめーの読み違いだよ」という話なので省略。
『主にEckert (1991)の重要な著作に依って、私は原論文で日本の植民地主義が韓国で資本主義が孵化するためのフレームワークを構築した、と論じた。』『HKMはEckertはある特定の例しか研究しておらず、日本の植民地政策の影響がなかったとしても、韓国固有の資本主義がいずれ芽生えたはずだ、と主張している。』
これに対する反論として、Kohliは3点の反論を挙げている。(1) Eckert (1991)の“韓国の資本主義は日本の統治の下で、日本の公式な承認(official Japanese blessing)をもって花開いた”という議論は依然として受け入れられており、仮に例証の少なさが問題だとしても、多くの研究者がいくつもの例証を発見しつつある(例えば、Ho Su Yolの研究によれば、韓国の企業家の数と、韓国人所有の企業の規模は、1930年代に共に増加している。(2) 歴史にifはありません。 (3) 『確かに、植民政府は利己的な動機で動いていた。確かに、多くの企業は日本人に所有されていた。しかしそれでも、その政府で、企業で、多くの韓国人が働いていた。そして、その過程で日本式の資本主義はゆっくりと、しかし確実に韓国に根付いていった。更に言えば、多くの韓国人起業家がそのビジネスをスタートさせたのはこの時期なのだ (Eckert, 1991)。確かに、有力な財閥企業の多くは大戦後に設立されている。しかし、資本主義というのはある日突然芽生えるものではない。多くの財閥企業(現代、三星、Lucky Starなど)の創業者達が最初に事業を興したのは植民地時代なのである。』
最後に、日本政府による朝鮮人労働者の使役の問題について。『私は原論文で、韓国での日本人は、きわめて抑圧的でそして日本自身のそれによく似た労使関係の構築に寄与した、と主張した。マネージャー達は若い韓国人を雇い、OJTを施し、愛社精神を植え付け、とんでもない長時間労働を要求し、そして国家権力を後ろ盾として労働組合や政治的な活動を禁じた。さらに、“サンポ”システムで「産業愛国クラブ(industrial patriotism clubs)」を組織して経営者と労働運動のリーダー達を同じクラブの一員とし、彼ら労働運動のリーダー達を経営者が雇い挙げる仕組みを作り上げた。この厳格なアメとムチのシステムは日本人経営者に「生産性上昇よりも低い賃金アップ」という恩恵をもたらしただけでなく、政治運動を無視して生産性向上に集中させることを可能にした。この仕組みは韓国政府に受け継がれ、その高度成長期まではこの仕組みは維持された。』
以下結論が続くが省略する。残念ながら、この論文は大学関係者以外はアクセス権がないので、興味のある方は大学図書館で以下を当たって欲しい。
A Kohli, (1994), “Where do high growth political economics come from?”, World Development.
S Haggard, D Kang, CI Moon (1997), “Japanese colonialism and Korean development: a critique”, World Development
A Kohli, (1997), “Japanese colonialism and Korean development: a reply”, World Development.
念のために書くが、別に権威ある意見が全てだと言っているわけではない。自分の足でデータを探して考えるのはとても大切なこと。でも、それだけではたどり着けない議論というのがあることも分かってもらえればありがたい。上で紹介したKohliは帝国主義と経済発展が専門分野で、日々そんなことばかり議論する毎日を送っているはずだ。そういう人たちがたどり着いた「日本の植民地政策にはありきたりのvices(悪徳)と、ユニークなvirtues(美徳)がある」という結論には、それだけの重みがあると私は思う。
公式RTだとか脱法RTだとかが話題になっているけれど、
それよりも重大なとても醜い問題があることをみんな忘れている。非公式RTなんてカワイイもの。
あれは一つの画面でレスとレス元がわかりやすいようした配慮であって、
たまにタイムラインを眺めるだけの私にはけっこう便利だったりする。
ただ、非公式RTをする人は、レス元と交流したいというよりも、
はてブのような「一言ツッコミ」がしたいだけ、という傾向が強い気がしてそこは悲しい。
それよりも悪質なのが、タイトルにもある通り「.@」で会話している人たちである。
最初これをやられたときは本当に意味がわからなかった。だから「これなに?」と聴いてしまった。
そしたらフォロワーの勝間和代が優しく教えてくれた。@の前に何かをつけると
会話している二人をフォローしている人間以外の、フォロワー全員に見えるからそうしているのだという。
なんのためにそんなこをする? 意味がわからない。どうして全員に自分たちの会話を見てほしいのだ?
そこにあるのは「見て見て!私たちこんなに交流してますよ!」「ネト充ですよ!」というアピールに他ならない。
そして、これは電車内で大学生が「俺たちの会話って面白くね? みんな聞けよ!」と大声で喋っているのと何ら変わらない。
彼ら、彼女らをいったいどうしてくれよう? 「かわいそう」としか言えない。
本気で倒す気あったとは思えんが。そもそも民主の政策は財務省の言いなりだし。
それに鳩山といい小沢といい、黒いカネの話が出てきたら致命傷になるのは目に見えていたのに、どっちも党や政府の要職に就いちゃってるってのが理解できない。
そういう、明らかに大ダメージ受けそうな奴ってのは奥に引っ込めて、矢面に立つ人間はなるべく身綺麗な人間を選ぶのが定石だろ。
そもそも「付き合う」ってそういうもんだと思ってる奴も結構いそうな気がする。
20代とかそういう時期がある人が人間としておかしいとは思わないけどな~
ちょっと遊んでみたりする人間なんて性欲が存在する男ではあながち外れてるとも思えないけど?
それでしばらくして落ち着いたりするなんてザラにある話。
でも今それを認められない程狭量な人がいるってのは想像出来たわ。
お前ら、みんなでAJAXでWeb2.0でJavascriptマンセー!!してただろ~
「え?Javascriptまだ切ってるの?」とか何度も見かけたぞ
今更何言ってんだ。切ってるのが普通。