2022-12-17

親にぶん殴られて育った俺は自分の息子を今のところ殴ったことがない

生家は漁師生業としており、親父は一般的イメージされるガハハと笑うような快活明朗なタイプで、根性論が大好きだし息子娘問わず鉄拳制裁なんて日常茶飯事だった。
ただ一応は男女の線引きがあったような気はしていて、女兄弟納屋に閉じ込められる程度の折檻は受けていたものの、男の俺のように木へ吊るされるとか海へぶん投げられるみたいな折檻を受けていたようなことは無かったように記憶している。

親父は子供ハチャメチャに殴り倒すみたいなことは無く、鬼の形相で強力な一撃を食らわし「反省せい!」とか「何やっとるか!」みたいに檄を一言放って作業場や寝室に籠もるというような人だった。
その後にお袋や祖父母が何が悪かったのか説明をしはじめて「お父さんに謝りに行こうね」と説得されて謝りに行くのが常だった。

まぁ冷静に考えると幼児の頃から高校生になるまで常に「強力な一撃」と感じたということは、おそらく年齢や体格に合わせて力加減をしていたのだろうと今なら想像付くが、当時はそんなこと気付かないので、ただただ親父が激怒するほどの大変なことをしてしまったのだなと思っていた。

俺の妻が妊娠したとなったとき、親父は気分が良くなったのか酒の進みが早く酔いが回って口が軽くなったのか「あのイタズラ坊主が」と言っていたのが実に印象深い。
そして「男らしく振るまえ、力の使いどころは考えなきゃいけない」と続いて、最後は「男の暴力は凄く大事ものだ、大切なものなんだ、宝物なんだ、その意味を考えろ」と言った。

はてなで過ごすと暴力なんてもの絶対禁忌で、どんなことがあろうと、例えそれが正義であれ悪であれ行使すべきものではない、何なら暴力絶対悪と思いたくなるが、俺の親父は「暴力は宝物」と言う。
その価値観の違いに混乱するけれど、親父が亡くなって子供がある程度大きくなった今ならば親父が何を言いたかったのか何となくわかる。

男にとって暴力とは最後の手段なのだ
大切な人々を最後、極限的に守らなければならないとき行使するのが暴力自然先祖が神が人間の男に与えた大事にとっておかなければならないのが暴力なんだ。
からこそ、暴力をみだりに行使することは非難されるべきであり、だからこそ宝物なんだと俺は思う。

親父が強力な一撃を放ったあと作業場や寝室に籠もってしまったのも今ならわかる。
息子をぶん殴るなんて何と心苦しく、そして愚かな行為なのか。それ以外の選択肢を取れなかった自分が何と情けないことか。

酔った勢いではじめて親父が理想と考えていた男親の姿を知ることが出来た。
親父は折檻を適切な教育とは思ってなかったんだ。ただそれしか方法が思い付かなかったか咄嗟にやっていただけだった。

俺はもしものとき暴力行使できるのか。
そうならないようにすることが本当に大事だけれど、暴力によって息子を静止し、そして暴力によって息子や妻を脅威から逃がすことができるんだろうか。
たぶん俺の親父は躊躇せずやれるだろうけど、息子である俺はどこか躊躇してしまうだろうと思う。

幼少期に親父が俺へ対して「俺からは力の強さを、お母さんからは優しさを継いだ」と評価してくれたけれど、俺は親父よりも肝っ玉が小さいので優しさというのはオブラートに包んだ表現だったんだろう。
暴力を考えること、暴力行使とは実に難しい、俺は度々そう感じる。

  • これからは妻子を暴力で奪われる世がやってくる 咄嗟の動きは普段の心構えからのみ生まれる 鉄拳が無理ならせめてヌンチャクを使いこなせるようになりたまえ

  • お父さん、良い意味で左翼みたいだね。 左翼と同じで、本当に人間社会を良くするためには必要最低限の暴力を行使する場面があると理解してる。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん