2021-08-02

心に性は必要なのか?


 性別を転換する理由がその性の権利を得るためならば、変えるべきは個人の性ではなく社会であろう。もちろん身体の変化そのもの必要としているならば話は別である。女として扱ってほしい、男として扱ってほしいの男とは、女とは一体何を指しているのか。例えば元の性別理由に何かを拒否された時、「男として、女として認められていないと感じる」という訴えをしばしば見かける。理想とされる対応模範的対応性別によって決まるのは性別のらしさに囚われている考え方である。ある性別専用の権利を獲得出来ず不利益が生じた場合、それに対応する必要があるが、それは必ずしも同じでなくてもよいのではないか

 例えば、女性用のトイレに入りたい理由が「男性トイレに入ることによる苦痛を避けたい」のであれば多目的トイレでその問題解決され、さしあたって多目的トイレの普及が社会のすべきことである。だが女性用のトイレに入ることが女性だと認められるかというと疑問が残る。誰に認められたいのだろうか。法?法は戸籍を変更すればその性を認めるということになる。手続きに関する問題解決すべきだろうが、ここで女性用のトイレに入れる権利保証することがトランス女性女性と認めるということにはならない。そもそもトランス女性というくくりがかなり広い状況を定義しており、「男の見た目で女子トイレに入れば怖い」というような反応が出てくるわけだが、この状態では女子トイレに入る権利を得たとしても、周りの人が女性だと認識してくれるわけではない。どこまでいってもトランスジェンダーというくくりから逃れることはできない。

 トランス男性トランス女性という呼び方を消してしまいたい人もいるかもしれない。ただの男性であり、ただの女性だと。だが男性あるいは女性というくくりが存在したままであることには疑問を抱かないのだろうか。その区別を消し去ることが出来ないのは、身体の性が消えることはないからだ(個人レベルではその限りではない)。もし今後、全ての人から生殖機能が失われるのならば性に関する問題はかなり消滅してしまうのにと思ってしまう。

 身体の性ではなく心の性の問題だ、と言われるとそんなものはないと言いたい。心に性は必要ない。身体の性にあった心の性がそもそも備わっているとも思わない自身の性に必要機能を失ってしまった人の心のありようが変わるわけでは無い。性別とは肉体によっての便宜上のものしかくそれ以外の一切のことに性別という考え方を持ち込むこと自体否定したい。

 筆者の立場は、心の性を否定しているという点では心はどちらでもないという状態に属しているといえるかもしれないが、そもそも心をどちらかに決める必要あるいは利点を見つけることが出来ない。身体の性による恩恵や害を否定することは出来ない。それは事実である。だが心の性というものによる恩恵や害は解決可能だ。したいことをすべきでありそれが出来ない社会は間違っている。だから必要ない。今は必要かもしれないが、必要でなくなる社会を目指している。

 性に関する問題において性的指向が残っている。生物としては身体の性では無い方というのが普通だが、(普通とはなんだ、という意見は尤もである。だが大多数がそうでなければ人間という種は絶滅する。別に絶滅でもなんでもしてしまえという立場なので、これは価値としての判断ではない)人を愛することに何か基準を設けても仕方のないことであるのでそれと心の性はやはり関係ないと思われる。

 それでも心の性は必要なのか?もちろん今はまだ、それが救いとなることも無視できない。だからいつか、心に性というナンセンスな考え方を持ち込むことがなくなればいい。

 

  • あるってさ。少なくとも去勢の手術ミスで、去勢された男子を「女の子として育てたら、結局は心と身体の不一致」で自殺したという結果になった事件あったっから、「心の性」も先天...

    • 「ブレンダと呼ばれた少年」の作者であり医師ではなさそうなジョン・コラピントに関する記事と、彼とごっちゃにされてそうなミルトン・ダイアモンドに関する記事があるので参考に...

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