2019-06-15

悪意はない、という建前を信じなければならないのか

ディベート技術大事って宣伝が広まったせいか、それとも世界的なポリコネ論調のせいか

証拠がない限り、明らかに悪意があっても言及してはならない、という見えないルールができたのが非常に面倒くさい。


例えば「公園のベンチで休憩していたら通報された」というニュース

http://news.livedoor.com/article/detail/16569333/


通報した女性は明らかに自分縄張りである公園に入ってきた男は気持ちいか通報して排除しよう」、

気持ち悪い男警察に捕まって苦しめ」という悪意で行ったのは言うまでもない。


しかディベートにおいて、発言言葉通りに受け取らず悪意を想定して指摘するのは人格攻撃から禁止、というようなルールがあるせいか

明らかな悪意であっても指摘した瞬間に「はいそんなこと言ってないですそんなこと考えるお前の性格が悪いだけ人格攻撃したお前の負けー!」となってしまうのが昨今の潮流だ。

この文章ツイッターにでも書こうものなら、明らかと思ってるのはお前だけ! お前がクズ! と散々にののしられることだろう。

結果、こんな流れをあちこちで見かける。

「本当に不審者だと思ったのなら、まず子供を連れて逃げるのが第一だ。子供保護する意識がかけているのは問題

「本文中に逃げていないという記述はない。不審者から目を離して自分だけ逃げるのは社会的正義ではない」

「この事件では書いていないが、子供連れだった落合福嗣氏の事件では後からしかけてきており、近くにいた事は明白」

あくまで疑いであ確信を持っていたわけではなく、確認のため警察を呼んだのは正当。そもそも事件が起きなかったことを喜ぶべきだ」


お互いに中途半端な指摘と擁護を繰り返すこの会話は、要するに「悪意があってやったんだろカスが!」「証拠がないだろバーカ!」と言い合っているだけだ。

悪意があるに決まっているのだが、矛盾違和感を突いてなんとか悪意があったと証明しなければならない、このくだらなさ。


流行りのヴィーガンだってそうだ。肉を食う奴は下等! 俺達上等! と他人を見下して喜びたいだけだろう、という明らかな事実は、なぜか言及した方の負け。

男女差別LGBT大麻合法化やらあれやれや。どれもこれも公平です社会正義ですポリコネですって顔をした嘘丸出しのポジショントークだらけだが、直接指摘したら負け。

わざわざ議論に参加することなんて全くないけど、建前を信じているという前提で反論しているのを目にするたびに、本当に無駄で面倒くさいと思う。


ふざけんな嘘つきが、という言葉がこんなにも言いにくい社会

嘘松という言葉いつまでも残り続けるのも理解できる。

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