疲れて布団に入ったものの、仕事の考え事や家族の生活音でなかなか寝付けなかったときのことだ。
それは眠りにつく直前まで考え事をしていた内容で、ある種その解答とも言えるものだった。
しかしそれが他人から語りかけられたことによって、目から鱗が落ちるような感動がありつつも素直には納得ができずに、同時に懐疑的に構える自分を自覚した。
ところが、その直後、家族の生活音によってわたしは突然夢から現実に引き戻されてしまった。
先程他人から語りかけられた考え事に対する解答とも言える内容は、眠りに落ちる直前にまさに自分が思いついたものだということを思い出したのだ。
しかし、それが夢の中では眠りに落ちると同時に自分が思いついたという記憶はすっかり忘れ去られていた。
その上で、それが突然他人によって語られた情報として自らに届けられることになったのだ。
たまたまその直後に現実に引き戻されたおかげで、偶然自らが思いついたことだという記憶を取り戻すことができたが、もしこのまま夢を見続けていれば、その情報は夢の中の第三者から与えられた情報として自らの記憶に定着していたことだろう。
一種の恐怖とも思える事柄だが、それ以上に興味深いものでもあった。
例え素晴らしいと言える考えだったとしても、ひとまず疑ってかかるのが性というものだ。
その証拠に、腕の立つセールスマンや宗教家が答えを口にせず、そこに辿り着くしか無い情報だけを提供して自らが答えに辿り着いたと誤解させることで、巧みに人々を操ることはよく知られていることだ。
自らの発見にポジティブでなくては行動ができなくなってしまうのも、他社の発見に対して素直に従えないのも、生存を目的とした生物の宿命と言ってもいいだろう。
もしその前提が正しいとするのであれば、この仕組みは実に理にかなっているものかも知れない。
顕在意識の中で発見してしまったものは、記憶が明確である以上、自らの発見であることを否定することは困難である。
しかし、そもそも記憶が曖昧な潜在意識の中で発見したものであれば、自らが発見したという記憶を、仮想の第三者が発見した情報だと書き換えることはそれほど難しいことではないだろう。
そうしてその情報が、例え仮想であっても第三者から届けられるということで、自らが思いついたときよりも冷静に吟味することが可能になっているのだ。
こうした機能を持つ生物と持たない生物とがいて、どちらが生存に適しているかは言うまでもないことである。
そこまで考えて、この出来事を掘り下げていけば人工知能に夢を見させることが可能ではないかという仮定に行き着いた。
そもそも人工知能に夢を見せる必要があるかという疑問があるのは確かだが、しかし、情報を自らの発見と第三者からの発見とで受け取り方を変えるとした上で、さらに自らの発見の一部を第三者からの情報として吟味し直すことができれば、より人間的な思考に近づいたと言えるだろう。