2016-06-23

想像力」はけして人間を救わない。

 よく貧困やなんかの社会問題系の記事で「一番の問題想像力の欠如だ」みたいな言われ方がされている。

 しかし、想像力とはそんなに万能なものだろうか。

 そんなに簡単想像できるものだろうか。

 人間基本的自分の見たもの経験したものについてしか考えられない。

 それ以上の領域踏み込むためには類推だとか連想だとかが必要で、それにしたってある程度の下知識が求められる。

 そういうものをぶちやぶって想像力を飛躍させるレベルともなると、これは一つの才能だ。だから小説家なり漫画家なりで金を取れる。


 誰もが小説家になる必要はない、弱き隣人に思いを馳せるのにそんなに大したコストはかからないと人は言うかもしれない。

 だが、大したコストなのだ

 社会問題を考えるうえで必要とされる「想像力」とはすなわち、「他者の痛みについての想像力」だ。

 痛みこそ、自らが体験あるいは目撃しないと想像することができない最たる感覚だ。

 実際にその痛みを体験したものでさえ、いったん過去としてしまえばすぐに同じ痛みを味わっている他者に対して冷酷に振る舞える。ルサンチマン。卑近なところでは、体育会系年功序列がいい例だろう。


 そもそも共感に訴えるロジックは、その感情を共有できない人間包摂できない問題を抱えている。

 共感能は誰にでも備わっているようで、グラデーションがあるものだ。映画で人が刺されるシーンを観て自分まで同じ箇所がキリキリ痛むような人もいれば、サイコパスと呼ばれる人々はまったく共感というものを持たない。その二つの極のあいだで我々は「すぐもらい泣きしてしまう人」や「反応が薄い人」として生きている。

 たしか共感に訴えるショッキング事件は、短期的には法改正などにつながりやすい。しかし、よほど特異でセンセーショナルなケースでないと大衆は食いつかない。たとえば未成年集団で残虐な事件を引き起こす、だとか。

 そこが難しいところだ。貧困など、恒常的で身近な問題共感通用しにくい。


 状況を良くしたいのなら、我々に「想像力」などないと認めるところからはじめるべきだ。

 人間他者に対して無関心なのは今に始まったことではない。その状況を了解したうえで、どうやってゲームに勝利するかだ。

 となると、やはり構造的に問題の根を断つ方法を見つけなれけばならない。なるべく人的コスト必要としない方法がいい。

 てっとりばやく、ゲームルール策定する側に回れれば話は早い。

 権力

 権力

 権力を手に入れろ。


 増田たちよ、栄達せよ。


 日本支配するのだ。


 そうして、クソを漏らす自由を。


 そうして、朝の山手線すっぽんぽんになる権利を。


 ハイルしなもん

 ジーク増田


 増田たちよ、権力を手に入れろ。

 

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