お母さんを捨てて、自分のことを考えたいのにお母さんに好かれたい選択肢を選んで苦しくなるんです。
私の中から消えてほしいんです。
物心がついてからの一番古い記憶は「お母さんかまって」「遊んでほしい」だった。
けれど、かまってもらえず、カラーボックスに入っている絵本を繰り返し読んだ。
お母さんはつまらなそうに、みのもんたが出ているテレビをつまらなそうに眺めてたね。
ときおり、移動図書館がきて、いつもと違う本を読んだ時だけ空虚な気持ちが消えた。
お母さんに触れたくて、でも触れるのを嫌がられた。
一緒に布団の中に入って、髪の毛を触らせてもらえたのが唯一のふれあいだった。
ある日「うざったい」と髪の毛を触るのを拒否された。
かなしくて、母親のいないタンス側の隙間をのぞいて、じっと泣くのをこらえた。
タンスの隙間から湿ったようなかび臭いにおいを今でも覚えている。
鏡でもよく遊んだ。好きな設定は鏡の中に、将来の自分が映るというもの。
女の子というものは年頃になれば、みんなきれいになるんだと思って妄想していた。
お母さんは、クラスのかわいい子に「○○ちゃんは華奢でかわいい」とか「笑顔がかわいい」と言っていた。
私のこと可愛いって言ってくれたことあったっけ。
おばあちゃんが服を買ってくれると言ってくれたから、淡いピンク色に二足歩行のうさぎと花畑が刺繍されていたワンピースを買ってもらった。
かわいい洋服を買ってもらい満足して、お母さんに見せたら「なんでこんなもの買ってもらったの」と責められた。
私にはセンスないよね、お母さんのいないところでお洋服買ってもらってごめんなさい。
小学生のころは週5で習い事があり、放課後に同級生と遊ぶのは稀だった。
ピンクと答えようとしたけど、それはかわいい子しか使っちゃいけない色なんだって思い出して「水色」と答えた。
それから、水色のものをもらうことが増えていったけど、本当はピンクを持てる子がうらやましかった。
気に入る内容のものはなくて、一番印象に残っていたのは種子島銃の本。
小学校1年生になっても補助なし自転車に乗れないのは恥ずかしいといわれて練習したね。
言い出しっぺはお母さんだったけど、練習は1人か、週末だけいるお父さん。
補助輪つき自転車に乗るより、誰もいないで1人練習するほうが恥ずかしくて心細かった。
乗れるようになってもほめてもらえず、できて当たり前で終わっちゃったね。
お母さんに悲しいことがあって泣きついたときに慰めてもらえることはなかったね。
「泣くのは甘え」といわれて育られたね。
だから、人前で泣かない子になったよ。
クラスで泣いている子がいても、慰めず「あいつは甘いヤツだ」って見下してたよ。
でも、高校生のころに人前で泣くのに怒られないで、慰められているところを見て、私の中の何かがぐらついてしまったんだ。
それから人の目がないところだと、今まで泣いてなかった分を取り戻すように声を押し殺して泣いたよ。
気づいたら、声が出ないで涙がツーっと落ちるようになったよ。
お母さんとの思い出、たくさんあって書ききれない。
でも思い出すと苦しいことばかり。
仲の良い親子がうらやましい。
アダルトチルドレンとか毒親ブームって、結局こういう自己憐憫症候群の人を増やしちゃっただけなのかなと思う。