「琴浦さん」。ニコニコ動画で相当な再生数を誇り、各種サイトでも良作と評される、今季注目のアニメ作品である。
主人公琴浦春香は他人の心が読める女の子であるために、周りから蔑まれ、憎まれてきた。その結果、彼女は心を閉ざし、「離れていくくらいなら最初から一人のほうがマシ」
と孤独を愛するようになってしまう。そんな状況に一石を投じたのが真鍋義久。底抜けに明るく、エロスなことばかり考えているが、正義感が強く、琴浦もそんな真鍋に惹かれていく…
三話までの内容はまぁここらへんである。(最後に酷いボディブローがあったわけがだが)
かつて、というか2004年あたりから始まったいわゆるアニメブーム。エヴァの残滓を受け継ぎながら、涼宮ハルヒに始まるアニメの流行。
涼宮ハルヒという作品の主人公、キョンは典型的な脱力系主人公。何事にもめんどくさいスタンス、しゃべり方は早口で小難しい言葉を使う。
そんな主人公が周りのぶっとんんだ人間たちに巻き込まれつつ、物語が進行していく。ハルヒとはそんな物語だ。
ではなぜ脱力系が選ばれたのだろうか。それは主人公に対する自己投影のしやすさにあるだろう。
物語の主人公というのは、その物語の一人称を指す。言い換えれば、物語の映写機はは主人公を通じて回される。
そこで読者視聴者は、主人公の目を通じて物語に入り込む。ということは、主人公に自己を同化させることで、物語の一因となるのである。
その時重視されるのが、自己をいかに自然に同化させることができるかという点だ。
現実で考えてみればわかりやすい。例えば、我々が他人に対して「共感」を覚えるにはどのようなことが必要だろうか。
共感とは一般的に、他人の感情を動かした出来事と近い出来事を自分のかつて体験してきた出来事の中から探しだし、それと照らし合わせることで行われる。
つまり、似たような体験を自分に追体験することで、その他者と似たような感情になることで、共感を起こすのである。
ということは、自分の中にまったく存在しない経験をした他者に対しては、共感はしにくいということになる。
祖父の死を悲しむ友人に対しては、自己の中にある「何かしらの死」という体験を思い出すことで共感を起こすことができる。
しかしながら、とても小さな子供を思い出してほしい。彼らは「死」の体験がない。「何者かの死」に似た体験を自己の中から引きだすことができない。
だから、彼らは「死」を具体的にどのようなものかとらえることができない。
そのため、子供は「死」に対する共感を起こすことができないのである。
つまり、脱力系の主人公が選ばれるのは、一番適切なのがアニメユーザーに「脱力系」の人間が多いからであるといえる。
アニメユーザーたちがより容易に物語に入り込むのに適切なのが、脱力系の主人公なのである。
しかしながら、そのような脱力系の主人公に対して、アニメユーザーの飽きが見られるのは事実だ。
それの飽きに対して、一種の清涼剤のような役割を果たし大成功を収めたのが、まさにこの「琴浦さん」なのである。
真鍋はいわゆる脱力系主人公のように物事に適当に取り組む様は見せない。
自分の性欲に忠実に動くし、自分が間違っていると思ったことに対してははっきりと間違っていると言う。
確かに、「共感」という観点に立てば、真鍋のような存在はアニメユーザーとはなじまないのかもしれない。
しかし、脱力系の主人公があふれかえりすぎしまった今、真鍋のような存在は非常に新しいものとしてアニメユーザーに受け入れられた。
読者の自己投影()論には飽き飽きしているので、増田も何か新しい論を考えてください。
その「脱力系主人公」というアニメでおもしろいと思えたものが一つもないので、君が何を言ってるのかわからない。 そんな僕だが琴浦さんはこしこししたいです。