はてなキーワード: asin:とは
NHK問題(asin:4480063366)の冒頭から抜粋
好きになれない人間のタイプが二通りある。「公共性」を口癖のように軽々しく言葉にする手合いと、「ジャーナリズムかくあるべし」と説教する輩だ。
公共性を口にする連中が好きになれないのは、ひとつに、その定義があまりにゆるく、だらしないことがある。「最近の若者には公共心が足りない」云々という言い方など、もはや言いがかりに近い。そこで「公共」の語は、若者以外の「われわれ」を指して使われているにすぎない。最近の若者は気に食わないと言うべきところを、公共性という言葉を持ち出して、あたかも普遍的な議論のように語る。その狡猾さ----しかも底が浅い---が、公共性を口にする人を嫌う理由のひとつになる。
ジャーナリズムかくあるべし論にも同じような欺瞞の匂いがする。ジャーナリズムは、「不偏不党」「客観報道」を心がけ、「権力の監視」を怠ってはならない、---彼らは、そう主張する。
しかし、メディアの歴史を調べることを仕事のひとつにしている筆者の立場からいうと、「かくあるべし論者」が述べるように、ジャーナリズムが中立公正で、客観的かつ科学的で、しかも市民の見方であったためしなど過去に一度もなかった。ジャーナリズムは常に偏り、常に主観的で、非合理的であった。市民の見方になったように見えた時期があったとしても、それは市民社会とジャーナリズム組織の利害がたまたま一致した偶然の結果にすぎない。「お行儀よくできるのにできなかった」のではなく、はじめから「お行儀よくなどできない」ものとして生まれ育ったのがジャーナリズムだということを、その歴史は如実に物語っている。
そんなジャーナリズムに「もっとお行儀よくあれ」というのは無い物ねだりに近い。特に現役ジャーナリストやジャーナリズム出身の大学教授などに、そう主張し、ジャーナリズムの現状を憂いて説教をたれる人が多いのだが、それは歴史に対する無知とご都合主義が加算された産物である。厳しい言い方になるが、彼らにとってジャーナリズムを美化するのは自分を美化するにひとしいのだ。
(略)
そうした批判が、「報道の公共性」について確かな考えをもっているわけではなく、あるいは実りのある議論を重ねてゆこうという強い意志をもっているわけでもなく、ただ「公共性かくあるべし」「ジャーナリストかくあるべし」と、ご都合主義的な理解をし、わかったような気になって、NHKに唾をはきかけるに等しい拙速な行為だからだろう。
google:ジャーナリズム 公共性 site:d.hatena.ne.jpをみると、はてなにもその手の輩がいるようだ。特に「ご都合主義な理解をし、わかった気」になっているところには注意。
具体的には、山下達郎 『JOY~TATSURO YAMASHITA LIVE』 (asin:B00005HIH5) anond:20070214025442 を追加。
anond:20070214025442さん曰く、
なんかおすすめしたいものはいっぱいあるけど、多くの人に薦められる一枚を選べというならコレを選ぶ。
薦められるか無関係で良いと思います!
一推しのアルバムを「匿名ダイアリーが選ぶ名盤百選」というキーワードと共に書いてあるエントリーがあれば、今後も追記していく予定です。
あと、遠くから、King Crimson 『レッド』 (asin:B000E1KN7U)を推す声が聞こえましたが、その人の意向により、追記はパスさせていただきます。
原則としてはこうこうだが、実際の細かい運用規程は個別に定められており、実社会では後者が採用されることが一般である。歴史の産物でもあり、大人の知恵の集積といってもいいだろう。にもかかわらず、大元の憲法の条文を持ち出して、大上段に構えているいい大人をみかけた。伝家の宝刀のように振りかざしているが、そのように一刀両断できるほど簡単なことなら誰も苦労はしない。
google:大上段から「正義」押しつける左翼な人々ぐらいだとまだいいけど、自分の正義を正当化するために、奇妙な議論をしている大人とは困ったものだ。その他google:詭弁のガイドラインに当てはまるところが散見されるなど痛々しい。
ASIN:4334032524(「みんな」のバカ! 無責任になる構造 )から引用すると、
「立場」に付随する「責任」論とは違って、「xがyに対して責任がある=往々するべきである」という形での「責任」論は、xとyの双方を具体的な特性を持った「誰か」として特定しないで進めていけば、いつのまにか「みんながみんなに対して責任がある」、というどうしようもなく曖昧な話になりかねない。
「みんなの正義をみんなで守ろう」という形をとるのが日本的な“みんな”の考え方であるのに対して、西欧個人主義というのは、社会的「正義」をいったん可能な限り個人の「権利」に分解したうえで、責任主体としての「個人」にそれぞれの守備範囲内で守らせていこうとする思想である。
法化された社会では、ある意味で、徹底的にエゴイスティック(自己中心的)にあることこそが、「わたし」の「責任」として---「みんな」から---与えられた領分を守る意味で倫理的なのである。
ナチス体制の暴走とは関係ないことはなく、めちゃめちゃ関係がある。それを関係ないと言い切っているのだから、読解力に相当問題ありと見なされるだろう。ついでにもたらされた結果の善悪に言及している時点で終わっているといってもいい。問題はプロセスとして通ってしまったことが主題なのだから。
こんなに楽しくてロックしているアルバムを届けてくれたことに感謝。
今まで知ることや、興味の幅を広げることに費やしてきて、
失ってしまった感情を久しぶりに思い出させてくれた。
斜に構えて聴く態度が身についていた、自分の身を恥じる。
自分が、18のとき夢みて、感じた熱い熱。
青く、真直ぐで、熱い熱が心の底から湧き上がって溢れでる。
ブライアン・アダムスに『死ぬまで18』という僕の大好きな曲があるけれど
それは単なる言葉ではなく、死ぬまで18という生き様、スタイルなのだということを
このロックが大好きな18の少女の、ロックンローラーとしてのデビュー作が、再度教えてくれた。
特権をもった人間が、自分の抑圧した人間に対して心に抱くやましさという重荷、そうした気づかいは、まさしく特権を維持するための気づかいなのである。
(『夢・アフォリズム・詩』ASIN:4582761496、p110)
禁欲主義者の多くは、もっとも貪欲な人たちである。彼らは人生のあらゆる局面でハンガーストライキをやりながら、それによって同時に次のことを達成しようとする――
一、ひとつの声に言わせる――十分だ、お前は十分に断食をした。いまやお前は、ほかの人々とおなじように食事をしてもいい。それにこれは食事とはみなされないであろう。
二、おなじ声に同時に言わせる――いまやお前はずいぶん長い間、強制されて断食してきた。いまからお前はよろこびをもって断食するがいい。それは食事よりも甘美であるだろう(しかし同時にお前は実際にも食事をするがいい)。
三、おなじ声に同時に言わせる――お前は世界に打ち勝った。わたしはお前を、世界と、食事と、断食から放免する(しかし同時にお前は、断食も食事もするがいい)。
そこへさらにひとつ、以前から彼らに絶え間なく語りかけていた声が加わる――お前の断食は完璧ではなかったかもしれない、けれどもお前にはよき意思がある。それで十分だ。
(同上、p239)
あんまり詳しく書くと野暮だからやらないけど、これって恋愛を語る人の身振りとか、非モテ主義者とかの行動にも当てはまるような……。
「交流分析」という心理学の分野があって(有名なエゴグラムなんかもこれから派生してます)、これは人間関係がなぜこじれるのかを解き明かそうとする学問です。その「交流分析」で使われる重要な概念として「ゲーム」というものがあります。この分野において、「ゲーム」という語は、「人間の行動の中で、予測可能で定式化し、一般に破壊的な結末で終わるもの」と定義されています。はてなキーワードだと「優越感ゲーム」とか言うときの「ゲーム」の意味がこれに近いと思われます。
この「ゲーム」の例がいくつも知られているのですが、そのなかに『ラポ』というものがあります。引用すると
●『ラポ』
「さあ、とっちめてやるぞ」と同じタイプのものだが、性的なニュアンスがより強く、女性が演じやすいゲームである。男性の前で、華やかな服装で魅惑的に振る舞う。男性が引かれて近づいてくると、急に態度を変えて、肘鉄砲を食らわす。「心と心のふれあいを大事にしたかったのに、結局は私の肉体に引かれたのネ。男はみんなケダモノ」と、激しく攻撃する。基本的な構えでは、「男性はOKでない」の構えである。常に、それを確認するために、被害者から迫害者に転じるゲームを演じる。
男性と親密な関係になると、恋愛関係をこわしてしまう女性。また、一見偶然のようだが、いろいろなトラブルに次々に巻き込まれる人たちは、このゲームの可能性が強い。
特に、ヒステリー性格(自己顕示欲の強い性格)の女性に多く、また、成熟した女性性が確立されていない場合に、演じられるゲームである。彼女たちの多くは、自分は被害者と思い込んでいる。
ちなみにラポとは、レイプをもじったもので、軽い男女の戯れから、複雑な三角関係、果ては、こじれてしまう離婚問題まで、さまざまな男女模様を含む。
(『万能感とは何か』、ASIN:4101291314、p122)
「ラポ ゲーム 女性」などで検索をかけるといくつか記事が見つかります。
心理学の『交流分析』では、こういった女の行為を『ラポ・ゲーム』と名づけ
男性への敵意から発している行為であると分析している。
幼少期か少女期に何らかの形で男性への反感、敵意を植え付けられた女が、
ラポ・ゲームでその復習を果たすことによって、満足を得るという。
交流分析という心理学の分野では、「ラポ・ゲーム」というものがあります。
女性が男性に好かれた瞬間に、その男性のことを嫌いになってしまうという行動パターンのことです。
ここには、無意識のうちに男性のことを憎む心理が働いている、といわれています。
そのために「男性に好かれ、自分は男性のことを嫌う」という図式を作ることで、無意識のうちに男性に対して「復讐」をしているわけですね。
合わせて読むと感慨深い。
正体不明が当初からあからさまだったので、嗅覚の鋭い人はすぐに勘繰ったわけですが、その勘繰りすら怪しいのか。
ところで、このディレクシブという企業だが、その実態がよくわからない。昨年7月に設立された芸能プロダクションなのだが、モナコにあるディレクシブ ホールディングスという持ち株会社の傘下にあるらしい。SUPER GTでdirexiv motorsportsをスポンサードしているGiribelli、Daniele de Winter、WOMもディレクシブ ホールディングスの傘下にある。だが、このうちナチュラルコスメのDaniele de Winter、靴用衝撃吸収材のNOENEしか活動実態が把握できない。広告代理店に外国人モデルの売り込みをかけていることや、元自動車雑誌の編集者の関与などの噂を聞くほか、ジャン・アレジやアレックス・ヴルツの家族(ちなみに妻は元ベネトンの広報だ)も関与しているらしいが、背景にどんな人物が存在し、どんな計画を持ち、どんな資金の流れがあるのか、事情通に尋ねてもだれも正確に答えられないか、曖昧な返答しかしない。この情報がどこからどんな意図で流されたのか、検討がつかないのだ。
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クルマの会社の利益が良い良いと報告されているけれど、メーカー主導のレースにはほとんど魅力を感じない。マーケティング優先指向でやりまくるだけで、結局、GroupBと同じ運命をたどるだけだと思うので。GroupBでは、観客と選手が犠牲になったが、F1においては、はじめにプライベーターが蹴落とされて、やがて自分達の首を絞めることになる。最終的にはF1がショボクなってしまうわけだ。(と思うんだよね)
--話は飛んで--
スカイラインのキャラクターが渡辺謙とイチローだそうで、確か、イチローはシアトルでフェアレディに乗っていたなぁ。(テレビでだけど...、そういう意味があったのかな?)
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市場を(消費する方向に)拡大することでしか企業が成長できないとしたら、やっぱり先細りだよなぁ。そもそも、内需と外需で考えるのは、外は無限大と考えている(もしくは搾取の対象)わけなのだ。しかし、その方向での成長を先に進めると、地球は閉空間なのだから、全体の総量は不変だと捉えているように感じる。
でも自分が生きている間に収束しないなら気にしないのが良いのかな。石油が思ったよりは長持ちしているように、資本主義も延命しているみたいだし。
と、いうようなことを、新車の登録台数は減っているという事実を踏まえながら、軽自動車の特集記事を読んだボクはつぶやいてみたのでした。
asin:4309016863は最悪だ。読むと、他の小説までつまらなくなる。
確かに俺は、この本で言うところの「保守的な読者」だ。すべての手がかりが示されることを求め、論理的な解答を尊ぶ。
だから、そんな保守的な読者が徹底的に敵視されているこの小説が好きになれるわけじゃない。
でも、そんなことはおいておこう。
途中で、他の推理小説のネタバレをしていることだけは許すことができない。
この本が、本の中で閉じているだけなら文句は言わない。せいぜい、気にくわない本で終わりだ。でも、他の本をつまらなくすることはどうしても許せない。
というわけで、俺はasin:4309016863が大嫌いだし、決して許すことはできない。
↓question:1142238823:q2:detail
参照:http://yuichirou.g.hatena.ne.jp/Yuichirou/20060401