はてなキーワード: 恐怖とは
http://anond.hatelabo.jp/20070403101744
ひとえに自信がないからだよ。
ネタにとか、表現にとかいう問題ではなく、もっと根源的な、自分というものに対する自信。
自分自身をエントリーという枠組みの中で語り、残し、晒すことへの恐怖感、嫌悪感、重圧感。
ブログをリセットするのは、長々とエントリーとして自分の声を残しておくことに耐えられないからだ。
発言した僕の声がインターネットという巨大な機械の歯車として組み込まれていくことに絶えられないからだ。
僕は現実世界でも苦悩する。
人との会話での何気ない発言を、いつまでも後悔しているんだ。
ああ、なぜ僕はあんなことを言ってしまったのだろうか、と。
それがどんな影響を与えるか知らないけれど、人の心に組み込まれ、社会全体に溶け込んでいくことへの恐怖感、嫌悪感、重圧感が僕を苦しめる。
発話主体として社会に参加していくことができない。
言葉が主体から独り立ちし、他者の物となってしまう結末も知らないで。
こないだ産婦人科で初めて触診を体験したけれど苦痛以外の何者でもなかったよ。
あれに愛が混ざれば気持ちよくなるのか。自分には無理だ。
議論の邪魔になりそうだからここに書く。
議論の最中に医者同士が「応援してますよ」とか「批判者のお仲間」とか、「負けないで」とか、はては「良く知らない癖に」なんていう事言ってるのをみると、とても気持ち悪い、というか恐ろしい。
医者ってのは科学的に分析された症状に対し、冷静に判断していくのが仕事だと思っていた。
自分の信条とか、過去の経験というのも重要ではあるが、それよりも、今目の前で起きている事がなんであるのか、客観的に見る方を優先させるものではないかと思う。
下手な思い込みで重要な手がかりを見失いかねないからだ。
周りにいる人間は、何が正しいのか、最善なのかを一歩ひいた形で見るべきで、「よくわからんけど○○さんの言う事だから支持する」なんて人間が、命を預かっているのかと思うと、その無責任さに唖然とする。
批判を炎上ととらえたり、「放置するのがいいよ」という荒らし扱いしたり、勝ち負けの構図にしたがったりしているなどを見ていると、これが主婦のゴミ出し程度の問題ならいいけど、テーマが尊厳死だっていうんだから驚きだ。
自分を根拠なしに相手より高い位置にいようとする下衆が取りそうな行動だけど、それが逆効果だと言う事に気づけないのも、医者は社会性がないという無根拠の批判に同意したくなってくる。
「誤診とかしても「○○さんは日頃がんばっているから」と隠したりするんだろうな。」という感想をもたれかねない行為を、よかれと思ってやっている幼い精神の持ち主に、自分や自分の家族の健康を管理されているんだと思うと恐怖に体が竦んでしまう。
さすがに知能が低い人間は医者になれないと思うので、知識や経験の問題でなく、コミュニケーション作法の問題だろうと思うが、それができない人間達にに説明される医療について、自分の体について、家族の命について、素直に聞いていいのかどうか悩んでしまうできごとだった。
願わくば、こんな人間だけでないってことを見せてもらいたいと思う。
最後に変な勘ぐりをされて関係者に迷惑がかかるのも何だから、私は、記名、匿名にかかわらず、また、ブログ、はてブ、2chなどのいかなる場所でも、この件に今まで何かを発した事はない事を誓うので、どっかのバカが勝手な事を言っているという認識でいて欲しい。
追記
真面目にこの問題を追いたい人は、ここからたどるといいでしょう。
なんだっけかなー、ハルキ文庫版の『神狩り』あとがきだったと思うけど、山田正紀がちょうどあなたと同じくらいの年頃のことを回想してた。デビューしたもののそれだけで食うことはできず、アルバイトをしながら次回作を書きためてたっていう話で、彼は繁華街でサンドイッチマンのバイトをしながら、作品の構想を練ってたんだそうだ。朝から夜までずーっと立ちっぱなしで、誰ともしゃべらず、ただただ次作の構想を練り、帰宅したらすぐにそれを原稿用紙にぶつける。それがすごく楽しくて、毎日充実してた、って書いてたのが印象的だった。
あと、奥泉光のエッセイ集『虚構まみれ』にも、同じくらいの年頃の生活のことがいくつか書かれていた。基本的に貧乏で、まだ作家デビューもしてなかったんだけど、毎日家にこもって自分が思いつく限りの実験的手法を使った小説を書いていたっていう話。奥泉も、この頃の生活のことを、とても豊かで充実した日々で、「作家」になるためにはこういった「逼塞」の時期が必要なのだ、できれば若いうちに、と書いていたのが印象に残っている。
僕は作家ではないので、あなたが今直面しているような、長期に渡るライターズ・ブロックの経験はない。でも文筆業者の端くれではあるので、「文章を書く」という行為が苦痛に思えてしかたなかったり、まったく興味を持てなくなったりすることの苦しさ、恐怖はわかる(なにしろそれで食っていかなければならないので、書けないということは容易に生活の破綻へと繋がるわけだし)。「創作」という要素が加わった場合、その苦痛はさらに大きなものとなるだろうことも、なんとなく想像はできる。あくまで想像でしかないけど。
だからまあ、これは半分アドバイス(同じ文筆業者として)、半分無責任な言いっぱなし(作家ではない職業の人間の幻想)として聞いてもらいたい。あなたは今、貯金もそこそこあることなんだし、これから一年半くらいはなにもしなくても暮らしていけるはずだ。だからこれからの一年半くらいの時期を、二十代最後の、たぶん今後二度と訪れないであろう「逼塞」の時期として過ごしてみるというのはどうだろう。これは若い頃じゃなきゃできないし、作家以外の職業の人間にはなかなかできないことだ。孤独かもしれないし、何もしない日々が続くだけかもしれないけれど、それはとても豊かな営みじゃあないだろうか。高等遊民としてこれからの一年半を過ごすのだ。
確かに400万という金は、他の人が書いていたように、一生を託す金額としては「鼻クソ」かもしれない。だけど、独り身で一年ちょっと暮らすには十分だ。恐れることはない。余裕をもって、何もしない日々を優雅に過ごせばいいじゃないか。僕は作家ではないので、具体的に何をすれば「創作」の意欲が沸いてくるのかについては何も答えられない。しかし、「今日も何も書けなかった」と何かに追われるような日々を悶々と過ごすよりは、これから先、一年ちょっとの余裕があるのだと考えて日々を生きるほうが、まだ何かが沸いてくる可能性があるんじゃないか、とは思うよ。金が尽きたときのことはまったく考える必要はないよ。金が尽きたら働くか、あるいは野垂れ死にすればいいだけなのだから、悩むほどのことは何一つない。二択だ。シンプルだ。自由だ。
あとはやっぱり、他の人も書いてたけど、体を動かすと楽しいよ。特に働く必要がないなら、一人でできるスポーツをするといいと思う。体を鍛える系じゃなく、なるべく遊戯的なものをね。バッティングセンターとか、ゴルフの打ちっ放しとか。あと水泳も楽しい。自転車なんかもお勧め。
いやほんと、体を動かしてると、机の前に座っているときとはまったく違う言葉が見えてくる。あるいは言葉がぜんぜん考えられなくなることもあるけど、そういうときは疲れて休憩してるときに反動でぶわーっと言葉が沸いてくるんだなこれが。面白い。世の中には我々が想像だにしない面白いことや楽しいことがごく身近に、簡単にアクセスできるところにごろごろ転がっているんだけど、そういうのは時間に余裕があるときじゃないとぜんぜん気づけない。だから今あなたのように時間に余裕がある人がほんとうに羨ましい。
なんだかとっちらかった文章になっちゃったけど、これから、いつか、あなたが書く新作が、多くの読者に喜ばれ、受け入れられることをお祈りしています。
http://anond.hatelabo.jp/20070328125954
余命は本当に半年とは限らなく(病気の進行は個々によって異なり、統計学的平均値が6ヶ月なだけ)、半年と判断した患者が2年以上生きることも往々にして有ります。
もう1つは、死の数週間前からは当然体調も悪くなり、臥床して過ごすことしか出来なくなります。最後は苦しみと痛みを取る為に鎮静剤と鎮痛剤で朦朧とした状態になるでしょう。
副作用に苦しまない最大限の治療を行って延命しつつ、いつかしようと思っていながら今まで出来ずにいたことを行うのが良いでしょう。死後の世界はありません。死の瞬間に全ての記憶が消滅します。その為、「悔いを残さない」というのも、自分に取ってはそれほど意味はありません。周りの人間の心に、「もっと○○をしてあげれば良かった」という気持ちを残さずに去るために、満足したように見せながら逝けるように、やりたいことをやっておき、食べたいものを食べておくべきだというだけのことです。死後にあなたが後悔することはありませんから、心配する必要はありません。
人生は生きるに辛い場です。死への恐怖は生きる限り当然ありますが、死後は全く苦しむことがなくなりますから、人生という課題を攻略したのだと思いましょう。
不死であるなら新しい命をはぐくむ必要なんてない。
人は死ぬからこそ新しい命をはぐくむのだと思う。
確かにそれは一種のエゴだ。
誰かを失うという恐怖はよくわかる。
でもそれは裏を返せば大切な誰かが存在しているということ。
新たな命をはぐくむことがなければ、その大切な誰かが存在することもない。
失うことを恐れて最初からそれを欲さないことで、
完全なる孤独に陥ることに果たして人は耐えられるだろうか。
たとえエゴで生まれた新たな命であっても、
その誰かが自分のことを「死んで欲しくない人」と思ってくれるようになれば、
それはその人がこの世界に価値を見出したということであり、
無意味なことではないと思うのだが。
大学で結構な恋愛をしたけれど、別れて、自我までぶっ壊れそうになって、取り合えず周囲の知ってる異性と遊んで探って、ああ女なんてこんなもんかな、と何か悟ってしまって
達観かな?と思ったけれど、どうも極度の恋愛拒絶なようで、壊れかけた自我を修復するために頭がとった防衛本能みたいな感じが否めなくて
僕ぁ勉強して、立派な社会貢献者になりたいわけで、それならいっそ、恋愛なんてものの優先順位をぐーんと下げてしまおうと思って
独身貴族を心に誓おうかなとまで思い始めて
オナニーはしっかりするし、身近な異性との馴れ初めを妄想したりもするんだけれど、いざ目の前に異性がいたところで、頭にそういう意識が湧いて来なくなってしまった
とりあえず愛想笑いして、「飯でも食いに行こうよ」と誘い、車で家まで送ったり、じゃれ合ったり、スキンシップしながら、僕はただピクリとも動かない下半身との対話に耽るのだった
なんとなく精神疾患かなと思い始めた
だけどこの前、ある女の子にたびたび微笑みかけられ、腕まで組まれて、会話しているだけでも僕はドキドキしてしまった
久しく忘れかけていた思いのような気がする
なんだ僕は正常じゃないか、と胸を撫で下ろせる出来事だった
その子に彼氏さえいなければ、な
女性恐怖症克服をするならあそこはうってつけかもしれぬ。ただ、間違ってもPC系のコールセンター勤務はやめておいたほうがいいかも知れん。
携帯電話や配送センター系、通販系のコールセンター等であれば女性が多く、容姿云々の好みがうるさくなければ「最初」は優しいおねいさま方が手ほどきで「電話対応のいろは」を教えてくれる。
お昼も一緒に食べられるコトも多い。
電話が暇な時は色々話もできるし、相談もできる。
だから案外センター内での恋愛は多く、男性がSVになったりするとできちゃった婚をする奴も多く、そのまま社員として勤務するコトが多い。逆に離婚する確立も高い。
男性で性欲強いヤツは、酔わせて強引にホテルへGOするヤツも結構多い。
ただ、業務はクレーム対応等やクライアントからの指摘でハード的な部分が多くいつまでもいるような場所ではないし、成長が見られなければ辞めておいたほうが良い。
また男性自身がSVやリーダークラスになるとオペレータやリーダー女性から突き上げを喰らうことも多く、変に怒らせると左遷までされかねない。
特にセクハラ等はもってのほかで、バレンタインに30人から一つのチョコを貰えば自腹で30人にチョコを返さねばならないという暗黙ルールがある所もある。
管理者とはオペレーターやリーダーのご機嫌をとってナンボだからだろう。
また、噂には十分注意するコトだ。
恋仲や結婚すると噂は一日でマネージャークラスや支店全体に広まる可能性もある。あのネットワークだけは十分に注意するべし。
勿論、わきが、体臭、口臭、洋服、靴等にも社会人の身だしなみ以上に気をつけておくコト。オタ臭などは相手がオタである判るまで極力普通人を装うコト。できれば「ちょいオタ」ぐらいであればよいだろう。
後輩オペレーターから応対クレームの対応をお願いされた場合は、腹の底で煮えくり返っても笑顔で対応すること。
エンドユーザにお詫びする場合はオペーレータが無能であったコトを散々言っておけば少しはスッキリするだろう。
で、オペレータの前ではニコヤカに注意する。
おっとこれ以降は、通信傍受になるので書けない。
先天性疾患や慢性疾患のお子さんを持つお母さん達のコミュニティをまとめているのは、「かわいそう」というルール。
元気な子供の母親は、状態の悪い子供の母親を「かわいそう」と思う。
状態の悪い子供の親も、もっと悪い子供を見ては、「かわいそう」とまた思う。
本当に具合の悪い子供は、寝たきりで、痰も出せない。酸素が手放せない。
自分ではもちろん食事も取れなくて、生まれてから10年ぐらい、ものも言わずにずっと病院の奥で過ごしている。
具合の悪い子供は簡単に肺炎になって、呼吸状態が悪くなる。そのたびに集中治療室は大騒ぎ。
具合の悪い患者さんには、人工呼吸器が必要。呼吸器管理が長期間になりそうな人は、最初から
気管切開をしてしまったほうが、合併症が少なくて管理がしやすい。
お母さん達は了承しない。
病院の中で一番「かわいそう」な子供というのは、上手に呼吸ができないから気管切開を受ける。ここが終着点。
お母さん達は、みんなで「かわいそう」を共有して、病院の中で一つにまとまる。
入院期間は10年以上。まとまらないと、時は越えられない。
気管切開を受けた子供は、声が出なくなる。出なくなるのは子供の声だけではなくて、
そのお母さんもまた、「かわいそう」という声を失って、コミュニティから追放される。
声を出す側から受ける側へ。
小さなコミュニティでの立場の変化というのはものすごい恐怖らしい。
お母さん達は「自分の立場」と「子供の命」を天秤にかけて、泣きながら悩む。
「あのかわいそうな子供」になった子供は、もう声も出ないし、手もかからない。
お母さんは、みんなの「かわいそう」を浴びながら、穏やかそうに座っている。
ひどすぎる。いつからこんなに低レベルな学校になったのだろう?
「○○のパンツ見ちゃった」などという、個人名を挙げたセクハラまがいの書き込みが相次ぎ、そこに誰かが「いい加減やめろよ」と書くと、今度は「実名挙げるななんていっても無駄なんだから、実名挙げられて不愉快に思う奴はここ見なければいいんじゃね?」と屁理屈。
そうじゃないだろ。人間やっていいこととやってはいけないことがあるんだよ。警察に捕まるかもしれないとか人権侵害だとか、そういうことはこのさいどうでもいい。「自分がやっている行為がいかに悪いことなのか」「その行動が誰かをどれだけ傷つけているのか」ということすらわからないで、自分の快楽だけを頼りに書き込みをすることが、どれだけ悪いことなのか、どうして彼らはわからないのだろう?道徳心が彼らにはまったくないし、「道徳」「暗黙の了解」がいかに大切なものなのかもわかっていない。
いつからネットを使用する人間はこんなににも低俗化、低年齢化、幼稚化したのだろうか。ネット上のモラルがわからないやつはネットを使う資格なんかはじめから持っていない。
思えば自分も一時期実名を挙げられて苦しんだことがあった。「どうして自分なのか?」「誰が書いたのか?」という苦しみで夜も眠れず、もちろん学校にいっても「この中の誰かは仮面をかぶって俺に接している」と思うと授業中以外はずっとトイレにこもっていた。こういう状態のやつに「見るな」といっても無駄。見なくても「書き込まれている」という事実は消えない。「誰かが書き込んでいる」という事実は消えない。友人が、教師が、親がその書き込みを見ているかもしれない。そして「そうか、あいつはそういうやつだったのか」と事実無根なレッテルを貼られるかもしれない。想像すればするほど不安は広がるばかり。その裏で書き込んだ奴はずっと笑っているのだ。見つけたらぶん殴ってやりたいくらいこっちは苦しんでいるのに、相手は画面の前でほくそ笑んでいるのだ。
「実名を書き込まない」。どうしてただそれだけのことを守れないのか?それだけで同じ目にあっている多くの人が、あのなんともいえない恐怖から開放されるというのに。
受験をする前に「お受験板」を一度見て、そのスレでどれだけネチケットが守られているのか見てください。それこそが受験校の生徒の「本当のレベル」です。偏差値以上に重要な指標となるのではないでしょうか。
私の母校は山に囲まれた田舎にありました。あの外部からの刺激がまったくない学校では、確かに人格形成が遅れマナーを知らない人間が増えるのも、当然かもしれません。
まぁ、そこらへんは程度問題だよね…
鬱病にもさ、通常時は普通で、ネガティブな事をちょっと考えちゃうと一気に穴に落ちるみたいに重度の鬱症状を示すタイプとかあるのよ。
だからそういう人だと、普段は全然感じさせない場合もあるよ。
あとまぁ、ネットでは明るくても、リアルで会って見るとまったくしゃべれないみたいなのも居るから、判断が難しいのよ。
鬱病の一番の問題はそういう、一般の人に非常に理解され辛い病症を示す所だから、あんまりこの手の話題でdisって欲しくないなって思う。
確かに本当に鬱なのか疑わしい逃げてるだけの人も最近は増えてるらしいけどさ。
一応自分は鬱脱出組です。また落ちるかもしれない恐怖は今でもある。まるで薬物中毒みたいな感じ。
小学校の終わり頃に患った精神障害(かなり特殊な神経症のひとつ)に人生を狂わされた。あまりにも早すぎて、まだ碌に人生など始まっていない時期の発症だったから、狂わされたというのは少し妙な言い方かもしれない。ともかく、あるきっかけから発症し、その後の生活は全てその障害に支配されることになってしまった。対人恐怖症に似たもので、自分の内面を知られることや、人と会話することが恐ろしくて、何もできなくなった。たくさんいた友達を全て失って、親や兄弟との会話も難しくなった。なんとか学校には行っていたけど、ずっと一人だった。昼休みは図書館の一番奥の席で誰にも見つからないように時間を過ごし、授業が終わると真っ先に教室を出て、近所の公園に向かった。そこのベンチに座って何時間が過ごして、6時くらいになったら家に戻るという毎日だった。いちおう部活に籍を置いていたから、家にはあまりはやく帰れなかった。傍から見たら、完全な狂人のような生活を送っていた。
これほど苦しいのに、自分の精神に起こっている異常を誰かに打ち明ける勇気がなかった。臆病さに関しては僕の右に出る人はいないだろう。とにかく自分が情けなかった。他人とまともに顔を合わせて話せないほどの重症だったんだ。そんな風に、誰の助けを求めることもできないまま一人で悩み続け、中学・高校の6年間を過ごした。
高校の卒業間際になっても病気が治る見込みなんてまるでなかったから、将来どうしていいのか全くわからなかった。大学へ行ったところでうまくやっていけるわけはない。かといって就職できるわけでもない。結局、センター試験でわざと低い点数を取った。そうすれば親に何も説明せずに、浪人というモラトリアム生活を送れると思ったんだ。一悶着があったのだけど、どうしても大学に行きたいからと親に言って、なんとか浪人生活を送ることになった。
数ヶ月間、何もしない時期が続いた。金がかかるからと言って、予備校には行かなかった。図書館で勉強してくると言っては、誰もいない山道をぶらぶらと歩いたり、本屋で時間をつぶしたりしていた。でも、秋頃からはさすがにまずいと思って勉強を始めて、なんとか入試には合格した。とにかく実家から離れたかったからわざと遠い大学を受けて、親にはどうしてもここに行きたいからといって認めてもらい、一人暮らしをすることになった。
大学へ入っても相変わらず、他人との一切の接触を絶った生活を続けた。でも、ほんの僅かな救いは、中学・高校の頃に比べれば病気が少しだけ楽になってきたことだった。少なくとも一人で部屋にいるときは落ち着いて本を読んだり、ネットをしたりできるようになった。掲示板やチャットから、数少ない他人との繋がりが生まれるようになった。
やはり学校にあまり行けなかったから一留してしまったけど、それでもやがて3年の冬になり、就職活動をしなければいけなくなった。たんまりとたまった奨学金、そして今後の生活のために、働かなければならない。そうしなければ生きていけない。今までの学費で親の貯金は全て消えてしまったのだから。
似合わないリクルートスーツを着て、面接を適当に愛想笑いで誤魔化しながら、なんとか一つの会社の内定を貰うことはできた。今の僕は、その内定を貰った後、4月の正式な入社を控えている状態だ。2年遅れているから、24歳の大学4年生だ。
就職はしなければならない。そうしなければやっていけないのだから。でも、とにかく孤独過ぎて、どう言っていいのかわからないほど苦しい。自分を理解してくれる人なんて今後も現れるわけはない。ただの失恋の悩みや、人間関係の悩みとはわけが違う。自分は精神科医ですらほとんど知らないほどの特殊な症例なのだから。こんな自分の内面を理解できるのは、インターネットの掲示板でときおり出会う、かけがえのない同病の人達だけだ。顔も知らず、匿名で言葉を交わすだけの薄い繋がりではあるけど・・。
あまりにも世間知らずで、対人接触の経験の無い異質な人間が、健常者にすら過酷なサラリーマン社会に出ていこうとしている。障害者枠で働いていくことも考えたけど、それは自分のプライドが許せなかった。今まで読んでくれた人は気付いているかもしれないけど、精神障害を抱えながらでもやってこれたのは、ひとえにプライドが高いからだ。周りの人間になめられたくない、負けたくないとう動機だけでここまでやってきたのだと思う。
でも、本当はいまさらどんな努力をしたことろで、健常者とまともに戦えるわけはないこともよくわかっている。身体障害者にはパラリンピックという晴れ舞台が用意されているけど、健常者に混ざって生きる精神障害者には何もない。理解者もいなければ、助けてくれる人もいない。全ての困難を、何の賞賛も無いままに、自分自身の力だけで乗り切っていかなければならない。
これからも何度も何度も悩むだろう。絶望するだろう。その度に酒を力を借りて誤魔化し、一人でじっと夜明けが来るを待つんだろう・・。