はてなキーワード: ヒマとは
ぼくにはあやまらないといけないことがあります。
テストをやっていて、時間があまってしまいました。
ぼくは公文式をやっていたので、
問題は見たことあるものばかりで、
半分くらいの時間でおわってしまったのです。
うらに絵をかいてヒマをつぶしていましたが、
かくスペースが無くなって、
ほんとうにヒマになってしまって、
はやく時間がたてばいいのに、と思いました。
そこで、時計に向かって、
「はやくなれ」と念じることにしました。
はじめはちっとも変わりませんでしたが、
そのうち、ちょっとグラッと何かがゆがんだような気がしました。
てごたえを感じて、もっとつよく念じてみたら、
時計の秒針がたしかにはやくなったのを、ぼくは見ました。
チッックッッタッックッッ
くらいのはやさだったのが、
チックッタックッ
くらいのはやさになったのです。
だいたい二倍くらい、こまかくいうと、70%くらい。
あわてたぼくは、どうにか元にもどそうと
はやくしたときの三倍くらいがんばってみたのですが、
もう元にもどすことはできませんでした。
その夜、ぼくはこわくなってひとりで泣きました。
何かとめんどうになった社会も
ぼくのあの軽はずみな行動が一因かと思うと、
ほんとうに心が痛みます。
時間をはやくしてしまって、ほんとうにすみませんでした。
http://anond.hatelabo.jp/20070402003013
できるだけ事実を書こうとする方が誠実っぽい感じは受けるけど、そんな堅苦しいのばかりでもツマランし。
元エントリの根拠云々にしても書くこと書くこと常に根拠があったり示せたりするようなもんばかりとは思えんし。
ただ根拠も無くいい加減なことばかり書いてるとこはそれなりの評価しか得られないようにはなってて欲しい。
でも現実にはそれが結構難しいので「なるべく事実を書こうとする態度」が期待されてしまうんだと思う。
某テレビ局が叩かれてるのって「TVを信じてる人が少なからずいる」からだよね。
例えば「東スポにやらせ疑惑」なんて話が出ても「まあ東スポだし」で終わるだろうし。
「免許剥奪」って騒いでる人達ってたぶん「TV報道は信用できるものであるべき」って前提が(無意識に)あるんだろうけど、
人間がやるものである以上 100% 信用できるなんてありえないんだから、
嘘吐きを叩くヒマがあったら「嘘を嘘と見抜く力を育てる教育を!」とか叫ぶ方がよっぽど健全だと思うんだけどな。
ここまで書いたとこで「メディア・リテラシー教育」を思い出してちょっと鬱になった。
すごい個人的な印象だけど、紹介のurlの、文章はともかく表示がなんだか厨っぽい。
やたら文字をカラーリングするから、ヒマなdqn医師に荒らされるんじゃないかな。
そもそも、医者も入る大学と年度によっては(スキル以前の問題として)能力がないんじゃね?
特にそういうヤツに限って、家が金持ちで甘やかされて育ってきて手に負えない尊大な自己を
相手に押し付けようとする。
このurlにあった「ロックトイン」になったとして、尊厳死擁護派・反対派原理主義者の
医者に高圧的に意見を押し付けられても、ちゃんと俺の状態をセカンドオピニオン取る
なりして把握して適切な選択をかわりにしてくれるような、そんな家族を育てるほうが、
http://anond.hatelabo.jp/20070324204332
宮崎勤を知らないネットのオタクが「これだからゆとりは」と下の世代叩きしてたら超面白いよな!
まぁ、ニコニコとか2chでゆとり叩きしてるのは元来ヒマな生物&新入生として入ってくるので関わることになる、ゆとり教育直前のクソ大学生どもだろうな。
あんたらはゆとり世代じゃないよ。本物のゆとり世代はあんたらのひとつ上さ。
アニメの内容が悪ければそれを叩き、自分の気に入らないものがあったら即クソ認定。居直りばかりでひとつも自分の頭で考えない。奴らの頭の中は叩く事しか興味ないのさ。
頭にウジが沸いている以上にゴミムシ以下の生物である、同じ人間としてカテゴリにいれたくないクズどもの態度こそ、「ゆとり」そのものなんだよ。
「このは」という名前の猫を飼っていた事がある。
秋口にイチョウの葉で埋め尽くされた公園に捨てられていたから「このは」と名づけた。
性別はメスで、茶色のシマネコだった。
メスのくせに全然おとなしくなくて、拾った時はティッシュの箱から全部引っ張り出して滅茶苦茶にしたり、ここだと爪とぎする場所を教えても壁でバリバリと爪を研いだりした。
餌も馬鹿みたいに食べて、それでも食事していると頂戴と言わんばかりのくりくりの目でこちらをずっと見ていたりした。
僕の実家は子供の頃から動物を飼ったことが無くて、最初の頃は本当に苦労の連続だった。
でも日に日にこのはが可愛くなってきて、しばらく経つ頃には僕はこのはを溺愛していた。
いなくてはならない、何にも変えがたい存在と言っても過言では無い有様だった。
僕は結婚していないからわからないけど、親ってこういう気持ちになるんじゃないかなとふと思ったりもした。
バイトに行っている間もずっとこのはのことばかり考えていて、猫缶の新製品が出たと知ると近所のペットショップであれもこれもと買ったりした。
首輪もこのはに似合う色を選んだり、それなのにまた新しい物を買ったりした。
ある日、このはが下痢をした。
飼ってから健康そのもののこのはだったのでビックリして抱きかかえたら、このはのお腹がぱんぱんに張っていた。
このはの体はいつもよりずっと温かくて、そこで僕は初めて異変に気づいた。
夜間にやっている動物病院をタウンページでさがして電話したのだけれど
その時、初めて自分がぶるぶる震えているのに気づいた。
眠そうな獣医が電話に出て、それでも今から連れてきなさいと言ったので、慌ててこのはをキャリーケースに入れて車で病院に向かった。
このはは、そのまま死んでしまった。
猫伝染性腹膜炎だと言われた。
獣医がなにやら説明をしていたけれど、僕の頭はまっしろになってしまって右耳から左耳へと獣医の言葉は流されてしまっていた。
とにかくわかっていることは、このはが死んでしまったと言う事であり、それは変えることのできない事実として僕に突きつけられてしまった。
このはを拾ってからたった四ヶ月。
すっかり冷たくなってしまったこのはを抱きかかえながら運転して家まで帰った。
部屋に戻るとこのはが大好きだったおもちゃや、このはのトイレや、このはのごはんが目に飛び込んできて、僕は泣いた。
夜遅くてご近所に迷惑がかかるだろうなぁ、なんて頭の片隅で思ったけれど、とまらなかったからわんわん泣いた。
冷たいこのはを力いっぱい抱きしめながら。
このは、このは、って馬鹿のひとつおぼえみたいに、ずっとこのはの名前を呼んだ。
でもやっぱりこのはは冷たいままだった。
ちょうど、1年前の出来事。
今でも押入れの中の段ボールの中にこのはの首輪やおもちゃが入っている。
見るとまだ涙が出てくるから、押入れのずっと奥底にしまっていたけど、今日出して改めて見てみた。
やっぱりまだ泣いてしまう。このは、本当に大好きだったんだよ。ありがとうこのは。
http://anond.hatelabo.jp/20070314201650
というところがとてもじゃないが耐えられない。
一行知識というのが世の中にはある。雑誌のハシラに書いてあった「サンドイッチはサンドウィッチ伯爵がトランプの合間に食べられる食事として発明した」といったような、どうでもいい雑学のことだ(唐沢俊一さんが詳しい>http://www.tobunken.com/)。今はトリビアとか言うんだっけ? この一行知識のよいところは、あまりにくだらないから誰も正誤を確かめない、ということだ。
「ものを知っている」というのは「見たことがある」というのとは根本的に違う。原著にあたれとは言わないが、少なくとも「インターネットのウィキペディア」で手に入れられるような知識に、正誤の確証性は求められないだろう。
だが、それでもいいのだ、それが一行知識ならば、その知識は「いかに役に立たず」「いかにくだらなく」「いかにソースが不明瞭」でもかまわない。面白いことが第一であって、他には何の役目もない。
ところで、カラスの脳には霊長類の新皮質に似た構造があって、他の鳥よりはるかに頭がいいらしい。
そう、スチャダラパーの名曲「ヒマの過ごし方」で歌われるように、人類の脳も、発達すると同時にヒマを知った。
ヒマを潰すために絵を描き、音を発し、言葉を生み、知識を遺す。
性本能は水爆戦がなくとも暴走し、テレビモニターの中に映る肌色の物体に欲情することを喜んだ。
かなり思いがけない事だが 人は必死でヒマをつぶしてるだけだ
本来 人はヒマだった そしてそれを受け入れることができた
世界中の至る所そんな足跡を見つけることができるだろう
スチャダラパー「ヒマの過ごし方」WILD FANCY ALLIANCE
酒の席で発酵と腐敗について一言、殺人の前にはモナリザの素晴らしさを語ろう。
女子プロの前座で小人プロレスやってた頃って百貨店の試着室で誘拐されてタイかどこかでだるまにされて、なんて都市伝説がありましたよね。
長い人生を生きていれば、要らぬ知識を溜め込むぐらいのヒマは誰でも作れるだろう。
そこで何を溜め込むかは人の勝手だ。できることなら、要る知識を溜め込んだ方が良いのだけれど。
本・テレビ・インターネットで見聞きしたことを話してるだけの浅いことしか知らないひとたちと、本当の知識を持っているひとの差は、誰にでもわかる。
「大切なのは何を知るかではなく、いかに知るかだ」という言葉にもある通り「インターネットのウィキペディア」ではそれなりのことしかわからない。
なぜ、自分よりも知識の少ないひとしか周りにいないのか、その原因を深く考えてみよう。
それなりの知識を溜め込んだ自分を、後悔する前に。
問題が1つできたときに、際限なく問題を掘り下げていくと、結局ポイントがボケる。
頭脳的・時間的・肉体的リソースは限られており、実生活に支障をきたしてしまう。
一般人が興味を持つのはポイントだ。
構造の問題を深く掘り下げていくのも大事だが、それは一部の人の仕事で、
また、それも程度の問題で広げすぎると一般人に解読不能なものとなる。すると、それは徒労でしかない。
専門家と被害者と一般人はポイントがボケるのを好まない。できるのはヒマ人しかない。
ヒマ人は、際限なく問題を広げていく。それは思考停止ではなく、際限ない思考の旅である。
問題が際限なく広がっていくのは、全体がヒマ人化して、ヒマ人同士のエゴがぶつかるからではないか?
厚生労働省の課長以上には、管理職手当という手当が支給される代わりに残業代が一切支給されない(公務員は労働基準法適用除外、ということで一応合法らしい)。ということで、「絶対に『わかった』とは言わない」どころか、すでにやっているわけですな。
この人はホワイトカラーエグゼンプションについては理解しているようだが、官僚制度の知識はウトイようだ。
国家公務員の課長職は、職級でいうと9級以上の上級幹部職員。国家公務員の職級順位は係員(1-2級)<係長(3-4級)<課長補佐(5-6級)<室長(7-8級)<課長(9-10級)という順位となっており、人数的には官僚ピラミッドの上から0.8%ぐらいまでが課長級以上。
霞ヶ関の本省には国家公務員が約17万人いるが、9級の課長は全省庁で1400人、10級の課長は66人しかいない。地方公務員でたとえると局長など、知事が出席する会議に出るような立場が国家公務員の課長だ。民間企業なら営業部長や工場長や支社長クラス。
国家公務員幹部に超過勤務が支払われていないのは事実だ。しかし、政府が提案しているホワイトカラー・エグゼンプションは、国家公務員の課長クラスを対象としているのではなく、国家公務員でいえば3級の係長とか棒級の高い2級のベテランの係員の残業までサービス残業を合法化してしまえという提案だ。
だから国家公務員の9級の課長以上が超過勤務手当てが無いことをもって、政府が提案しているホワイトカラーエグゼンプションを国家公務員が「すでにやっている」とはいえない。
もし国家公務員の9級の課長以上が超過勤務手当てが無いことを基準とするなら、ホワイトカラーエグゼンプションは年収2000万円以上の役職者だけに限定すべきということになり、それは現在政府が提案している内容とはまるで異なる。
国家公務員の課長をホワイトカラーエグゼンプション適用の基準とするならなおさら、政府提案のホワイトカラーエグゼンプションはひどすぎると考えるべきだろう。
国家公務員はの平の係員にはサービス残業が蔓延しており、残業しても超過勤務手当てが支払われないケースがかなりある。
超過勤務手当てが全額支給されている職員は全体の10.4%程度。実際に支払われている超過勤務手当ては、本来支給すべき超過勤務手当てのおおよそ5割程度だ。
なぜ国家公務員の残業の多くがサービス残業になっているのかというと、組織で使える残業の上限があらかじめ決められていることがひとつの理由。組織としての残業代の上限をいっぱいまで使い切ってしまったら、のこりの残業は、突発的な災害でも起こらない限り、原則としてサービス残業になる。
それがいやなら残業せずにすむよう仕事を効率化して早く帰れ、というのが人事院の言い分だ。が、多くの組織はどこも絶対的に人手不足なので、そんなことはできるはずもない。
たしかに、ヒマな組織も一部あり、そういう組織では、残業代の上限を使い切らないと残業予算が削られるのでしなくてもいい残業をしていることがある。だからそういうムダのないよう不要な残業予算を削ることは必要だ。
だが、人事院や財務省は必要/不用の判断を実態を調べて判断せずに機械的に残業予算を割り当てている。その結果、本当に残業が必要な組織ではサービス残業が蔓延し、ヒマな組織では上限いっぱいまで残業することが固定化されてしまうことになる。これでは悪循環だ。
仕事を効率化させるのはあたりまえとしても、それと賃金不払いは別問題。現実の残業労働に対しルールどおりの賃金が支払われないという現状は、労働法違反であり違法である。
だからサービス残業をやめさせろと組合は再三主張しているし、「国家公務員の残業改善に関する請願」も国会に提出している。誰もサービス残業という現状に納得して好き好んでサービス残業しているわけではない。
多くの組織では人手が足りない。足りないにもかかわらず公務員改革の名のもとで定数を極限まできりつめる。だからますます人手不足となり、残業が増える。残業が増えても公務員改革の名のもとで残業の予算をつけないから、サービス残業となる。結果、過労による労働効率は低下し、不満は高まり、職場の士気は落ち、労働効率は逆に悪化する。
行政サービスが人的問題によって劣化して困るのは、結局は国民だ。
http://www.shugiin.go.jp/itdb_seigan.nsf/html/seigan/1541351.htm
国公労の調査によれば、年360時間以上の残業者は全体の6割占めており慢性的な長時間労働となっていることが明らかになっている。過重労働による公務災害の認定要件とされる「残業時間月80時間以上」と回答している職員は、ほぼ2割(18.9%)に達している。調査対象となった職員の7.2%(364名)が過労死の危険を「現在感じている」と回答を寄せている事実も明らかになった。
こんな現状だから、厚労省は自分の職員に対してホワイトカラー・エグゼンプションを導入する気などさらさらない。もし導入すれば「違法なサービス残業の固定化だ」という批判が組織内部から一斉におこる。そしてその主張はまったく正しい。だから霞ヶ関は自分の職員に対してホワイトカラー・エグゼンプションを導入したくてもできない。するつもりもない。
つまり、自分ではできもしないルールを、国民に対してだけ、厚労省は求めようとしているということだ。
http://www.sannichi.co.jp/kyodo/news.php?genre=National&id=2006122101000602.xml
実質プログラマ(というかエンジニア、というかぶっちゃけ「理系」)がいないシステム開発会社で働いて半年1年になる。得意先に訪問してはVBで書かれたコードのメンテとか、SQLでクエリ書いてDBに変なデータが入っているのを見つけては修正をしたりとかが仕事になっている。
それで夜遅く帰社して(こんな時間まで一体何をやってたんだと)本日の仕事内容の報告を求められるので、「いつまでたってもシステムが要件を満たす水準に達してない」「修正依頼して1年にもなる(らしい)不具合がいまだに改善していません」「ろくにメンテしていないのでサーバーのレスポンスの低下が著しいです」等の悲惨な状況を文系営業の理解を超えない範囲で極力技術的な内容にならないよう注意しながらそれとなく匂わせるような奥歯に物が挟まったような物言いで説明すると「営業職がそんな仕事をするな。そんな遊んでいるヒマがあったら新しい案件引っ張ってこい。」と上司に怒鳴られる。私はただ、システム納品時に貴方が顧客に言った(筈の)「最後まで責任を持って面倒見ますんで」という約束を履行しようとしているにすぎないのに。納品時より完全に放置され肥大しまくったトランザクションログの削除があと1月遅れて、サーバーのHDDがパンクしてたら顧客に対して一体誰が責任を取ったというのだろう。
大体10人未満の会社の大半が営業なのはどういう事だろう。社長を筆頭に皆営業職しか経験が無いからそうなるのか。開発で採用されてもここ社内では技術的な話は全く理解されないのでエンジニアはアホらしくなって出来る人から辞めていった結果が今の現状だと推察するのは今の会社に対する侮辱になるだろうか。
こんな状態で新規案件もクソも無いと思うのも侮辱になるのかは知らないが、受注したところで「んで、このシステムを誰が作るの?誰が保守するの?」という疑問で日々頭がいっぱいでおかしくなりそうなのだ。挙句の果てに仕様書(らしき)プリント2枚渡されて「○○クン、これ出来る?」と言われたらやっぱり普通はここでブチ切れないと駄目なんだろうか。