はてなキーワード: ジャイアンとは
俺に気に障ること言われても文句言うなってどっちがジャイアンだよ。
だからそれがジャイアンだっつってんだろうが。
表明した時点で差別とか言ってることがよ。
要は事実だろうとなんだろうと「俺/私が気に入らなかったら問題発言!」と言ってるだけだぞ。
頭大丈夫かお前。脳梁の太さでも調節してきた方がいいんじゃないの。
昔どこかの駅ビルで、廊下のコンセントに携帯の充電器を挿して、接続したまま通話している高校生くらいの女の子がいた。
乗ると床にコードが延びている。
コードをたどっていくと一人のアラフィフティーッぽいオヤジのパソコンに片方がつながり、もう片方は車両の掃除のためなどに使用される電車内のコンセントにつながっていた。
このオヤジ、どうやら堂々と自分のパソコンに電車の電気を使っているらしい。
そのふてぶてしさに呆れた。
だが、車掌の対応にも驚いた。
何一つ、それを注意しない。
コンセントはご自由にお使い下さいと書いてあるわけではない。
私が電車に乗る前に、すでにオヤジを注意して電気を使う事を懇願されたのか、「高い料金払ってるのにコンセントも使えないのか!」とキレられたのか、完全に単なる黙認だったのかわからない。
若者だからとか、オヤジだからなどと安易に分類していいものではなく、どんなカテゴリーにもこういうジャイアンみたいな輩がいるんだと思った。
高級レストランであったり、有名人と会うことであったり、モノじゃなくてサービスかなぁ。
自慢のためにジャイアンたちを連れて行ってやれるのかどうかは分からないけど。
ところで、それらのサービスは、ドラえもんの原作が書かれた時からあったことだ。
当時、サービスよりもモノの方が自慢になるとして、原作は書かれたのであろう。
モノは進化しすぎて、落ち着いてきて、伸び具合が少なくなった。豊かになりすぎて、昔ほどの魅力を失った。
たとえばスネ夫が空き地でのび太達に自慢する(そしてジャイアンに無理矢理取られ壊される)アイテムとして「ラジコン飛行機」が挙げられるが、最近の放映作品(いわゆる「新ドラ」でそんなエピソードはあるんだろうか。或いは別のアイテムに置き換えられているのだろうか。「子供が子供に自慢する(そして自慢された側はうらやましがる)、親が買い与えるには少々高価な物」となると、何だろう?携帯ゲーム機か?
しかしNintendoDSもPSPも本体は2万円そこそこだし、特に前者なんて小学生の中には持ってる子供も多いから、それを買い与えられずに苦悩するのび太に対して、今時の小学生は自己投影よりも憐憫の情が先に生まれそうな気がする。一応以前のアニメにもゲームウォッチらしき物は登場しているんだが、このレベルだし。
もしくは携帯電話?しかし小学生がやる事といえばゲームとWeb閲覧とメール位だろうし、これも高価な物とは言い難い。原作掲載時期のラジコン飛行機なんて、当時の物価でも2万円じゃ済まないシロモノだったはずだよね。仮に現代を生きるスネ夫がのび太達に自慢するとしたら一体何だろう?
http://anond.hatelabo.jp/20081014005347
ところでアスペルガーと自己愛性人格障害入った境界例人格障害って併発するものなのかね?
どうでもいいことだが。
http://sana0329.cocolog-nifty.com/silent_voices/
に誤診を受けるケースと併発してるのではないかというケースについて報告があります。
http://sana0329.cocolog-nifty.com/silent_voices/2006/11/post_b692.html
また、
「意味不明な人々??発達障害(ADHD、アスペルガー)と人格障害に取り組む」(ご本人自身がADHDなお医者さま)
http://blog.m3.com/adhd_asperger_etc/
では、ほとんどはジャイアンと受動型ASではないかとまでおっしゃられてます。もちろん、諸説あるとは思いますが。
「精神疾患に見える発達障害シリーズ??」(上記ブログ内記事)
http://blog.m3.com/adhd_asperger_etc/20070922/1
心療内科の3年間の臨床経験では、少なくとも自分で「AC」とか「境界例」とか「自己愛」と言って正直に受診する人はほとんど結果としてADHDだった。
きちんと発達障害を除外する作業を進めたとすると、もしかすると「自己愛」や「境界例」はほとんどがジャイアンと受動型ASだったということになるのではないかという実感がある。
http://blog.m3.com/adhd_asperger_etc/20080305/1
受動型ASも別の意味で「ボーダー」でありうると私は考えている。そしてジャイアンと受動型ASを除いて行ったら、実は「純粋な境界例」は私の知っているケースの中には一人も残っていない。
私見では、
1.アスペ特有の「他人の痛みが想像しにくい」「他人には理解しにくいこだわりや執着を持つ」などの特徴が、人格障害と誤解されやすい
2.遺伝傾向が強く親にも発達障害があることが多いため、生育環境に問題を生じやすく、人格障害(かそれに近い思考)になってしまうことがある(見捨てられ不安、低い自己評価から来る二次障害)
が混在しているのではないかと思っています。
そんなレベルの経済学に関する知識しか持ち合わせてない俺がつぶやいてみる。
なんてしたり顔で言ってたが、あれは笑うところだったんだろうか。
今回の金融危機がヤバいのは間違いないが、
90年前とは世界情勢が全然違う。
あまりにも稚拙だと思うんだけど。
それはそうと、
はてなブックマーク - asahi.com(朝日新聞社):米下院、金融対策法案を否決 ダウ一時700ドル超下落 - ビジネス
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.asahi.com/business/update/0930/TKY200809300002.html
このブコメが意外で面白かった。
id:sekirei-9氏がいいコメントをしてるんだけど、
まさに「金持ち優遇は絶対悪。」っていう観点で
評価が多いのかと思ってクリックしたから。
これは俺の勝手な評価なんだけど、
はてなサヨクの皆様は、物事を是々非々で論じるより
というイメージが強かったんだよね。
左右が違うだけで、その辺はネトウヨと一緒だと思ってた。
だから意外だったんだわ。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080930/p1
個人的には概ねこの考えに同意だし、
さっきのブコメもこんな感じの論調になるだろうと思ってた。
今の俺は、「どうしちゃったの、はてなサヨク」っていう
普段あんな論調の連中がこんなことを言い出すとは
よほどヤバい事態なんだろうな、っていう危機感が、
入り混じって複雑な心境です。
はいはい。どこが論点が違うかわかりました。
合コンにそんな、帰れコールみたいなルールを作る風土が、イジメを生む風土。
多対1 という状況において 斟酌しない。という文化だねと。
というツッコミで
たぶん、この話は、どこまでいって、ジャイアン理論で。俺たちのルールがマイルール。という世界なので。
厳しいかと思いますが。おっしゃられていることはマイルール的にはあってるんだから元増田がわるい。という事かと思います。
そして、私の指摘は、そのマイルールが、標準的な大人の倫理に対して良くない面がある事を否定しきれないという指摘です。
マイルールというのは、あくまでも、マイルール や ハウスルールなので。
正しいという根拠なんかどこにもない。ってことです。
そのマイルールに基づいて正しい、正しくないっていわれても困るというはなしで。
おなじくイジメもクラスのマイルール的にはイジメじゃないが、本人からすればイジメって事です。
0か1かではないですし、刑事訴追を受けるようなレベルではないですが、良心に基づいて、最良の対応であるとは言い切れないと思います。
帰省中。家にあった「ドラえもん」をなんとなく読んでたのですが。
のび太たちが,地底世界で生きのびていた恐竜の末裔,地底人と会う話。
ロー(地底人の女性)とのび太たちが,地底の湖のほとりで話している。
地底世界には「日光ゴケ」がはえていて昼夜はあるけど,空もないし季節もない。
しずか
「地上ではもう秋で 赤や黄色の枯葉が風にまってるころだけど。」
ロー
「木の葉が赤や黄色になるの?」
「えっ,地底には紅葉がないの。
そりゃぜひみせてあげたいな 夕日にそまった紅葉の山の美しさを。」
「そうそう そこに雨上がりの虹でもかかればもう最高!!」
ロー
「雨? 虹?」
「なんだ雨もしらないの? 雨はね 雲の水滴が……,」
「だめだよ,まず雲からせつめいしなくちゃ。
雲ってのはね,地上の青い空にポッカリと……。」
「夜になると月がでて,星が空一面にピカピカキラキラ。」
ロー
「まるで夢の世界みたい…, いってみたいわ。」
(p.121-122)
ああ,ほんとうにそうだ。
思えばなんてメルヘンチックな世界にわれわれは生きているんだろう。
でもこんなこと,それこそ夢にも思ってなかった。
こういうふうにものを見られる人って,そういないよな。
さすが藤子・F・不二雄,というところだろうか。
「いらっしゃい ぼくがガイドしてあげる。
近くロールスロイスを買う予定だから…。」
これに対して
「なんだいなんだい、くやしくなんかないぞ!・・・ドラえもーん!22世紀のiPhone出してよー!!」
と、なきつくのがのび太
「あらすごいわね!なかなか手に入らないんでしょ!?」
と、(内心は知らないが)相手を立てる大人の対応をするのがしずちゃん
「おうスネ夫、いいもんもってんじゃんか。俺にもちょっとさわらせてくれよ!」
と、絡んでくるのがジャイアン
うらやましがることでスネ夫の自尊心をくすぐりつつ、「しょうがないなー、ちょっとだけだよ」と優越感を持たせて一緒に楽しんでくれるジャイアンは、意外といい友達なのかもしれないと思った。(壊さなければ)
マカーとかApple信者とかiPhone買う奴らのいけ好かなさ。むかつくよね。「ははん、まだ日本のケータイ使ってるの?これからはiPhoneでしょ」みたいな
あいつらのいけ好かなさと小物感、ずっと既視感があって、どこかで見たと思ってたんだけど、やっとわかった。
あいつらのApple製品自慢するときの口調はドラえもんのスネ夫。あの口調にそっくりなんだよ。「手に入れるのに苦労したんだぜ」とか「やっぱりボクくらいになると普通の携帯じゃ満足できないね」とか、聞いてもいないのにMacやiPhoneがいかにすばらしいものか説明してくるところとか。
例をいくつか
参考:http://uuseizin.web.infoseek.co.jp/blog/archives/001128.html
「ありがたくおがめよ。これを手に入れるために、どんなに苦労したことか。切手マニアなら、この程度のものを一つくらいもちたいもんだねえ。」
→ ありがたくおがめよ。これを手に入れるために、どんなに苦労したことか。先進的ユーザなら、この程度のものを一つくらいもちたいもんだねえ。
→ これはAppleさまが、ジョブズのコンセプトでデザインした○○だぞ。(以下興味もないAppleの威光が語られる)
「きみにはわからないだろうな。こういう高級なしゅみは。」
「ついに買ったよ。おもしろいんだぞ。すぐ売り切れちゃうんだ。」
「ぼかァね、新しいものがでると、人より早くパッとかわないと、気がすまないのよね。」
→ この辺なんかはそのまま使える。
そのまんまだよね! このことに気づいてから、ああこいつらはスネ夫なんだ、と思うことで大分溜飲が下がるようになったよ。イヤな奴だけど、スネ夫じゃしょうがないよね。
題名は正確ではない。正確には、「非コミュはどうしてリア充よりコミュ力が低いことになるのか」とでもした方がよいだろう。内容はここを読んで考えたこと。
自分に自信のない人間は、基本的に周囲の様子を常にうかがっている。場にそぐわない行動をして排除の対象になるのではないかと、多かれ少なかれ怯えている。いわば、誰よりも「空気を読んで」周囲に気を遣って行動しているのはこうした人間だ。しかし、結果的にKYと呼ばれて排除の対象になるのもやはりこの種の人間だ。余りにも悲しい現実だ。
では、どうしてそういうことが起こるのか。これがコミュ力の差なのであると元記事は指摘する。だが、それはむしろ逆ではないだろうか。以下の文章にヒントがある。
では、「リア充」たる基本的要件はなんだろうか。その絶対的必要条件は「コミュ力」だろう。「リア充」に慣れるか否かの決定的要因となるのは、新しく作られるコミュニティに対しすぐさま順応できる能力を持っているか否かであり、また見ず知らずの他人に対し仲良く話しかけることが出来るか否かである。これは「リア充」と呼ばれるにふさわしいテニサー達の行動を見ていれば分かる。あの行動の源泉になっているのは他でもない「コミュ力」であり、コミュ力こそがリア充につながるのである。
リア充が「コミュ力」が高い?とんでもない!ここに挙げられているテニサーなどその反例の最たるものではないか。混雑した学食の中、嵩張る荷物で座席を占拠しつつ大声でわめき立てる集団といえばほぼ間違いなくテニサーであろう。これほど、周囲とのコミュニケーションや気遣いを欠いた振る舞いもなかなかないのではないだろうか。
ではなぜ、リア充は傍若無人な振る舞いをしても排除されないのか。あるいは、リア充はどうして人に親しげに話しかけて、人を集めることができるのだろうか。その理由は簡単だ。リア充には理屈が通用しない。というより、奴らの辞書には自分が否定されるという文字はなく、奴らの空気を壊したり誘いを断ったりすれば、不愉快オーラと「空気読めよ!」という罵声が飛んでくるのは容易に想像できるからだ。だから、むしろ周囲の人間が「こいつらと関わると面倒だ」と、こいつらの周囲に漂う「空気」を読んで、先に諦めてしまうのだ。また、自分に自信のない人間(もう面倒なので「非コミュ」と略す。本記事中に限り「非コミュ」をこの意味で使う)にとって、彼らの罵声はトラウマを刺激され、後々まで精神的打撃を引きずることになるのは目に見えていることなのだ。
つまり、ジャイアンリサイタルである。ジャイアンの歌は甚だヘタクソであるにもかかわらず、出席率は100%である。その理由は明らかであろう。つまり、ジャイアンの歌と同様、テニサーが持っているような「能力」は本来の言葉通りの「コミュニケーション能力」ではない。しかしながら、ジャイアンやリア充は場を仕切ることができ、それ故に人を集めることができる。それが悲劇の始まりなのだ。
かくして、クラスの飲み会だの会社の同期だのの集まりは、酒や馬鹿騒ぎが好きでない非コミュにとっては針のむしろになる。しかしその中でも、非コミュは場の雰囲気を気遣い、自分が不快な思いをさせられるのを承知で、テニサー系人種の仕切る飲み会に欠かさず顔を出し、精一杯の作り笑いをするのである。一体「コミュニケーション能力」が高いのはどちらであろうか。それとも、「コミュニケーション能力」とは、テニサーが持っているような「コミュニケーションを人に強要する能力」のことだったのだろうか。
早い話、俗に言われる「コミュニケーション能力」や「空気を読む」とは「権力」のことなのである。そして、この権力がもたらす秩序に順応する力を「コミュ力」なり「空気読み力」といい、この権力秩序の元での被差別階層が「非コミュ」であり"KY"なのである。つまり、元記事は話の順序がまるで逆なのだ。「コミュ力」があって「非コミュ」があるのではなく、「リア充」と「非コミュ」の間にできる秩序をこそ「コミュ力」と呼ぶのだ。「リア充」に合わせる能力を「コミュ力」というのだから、そもそも「リア充」はコミュ力を問われることなどあり得ないのである。
つまり、「コミュ力」とは「リア充」との近さのことだったのである。従って、「リア充」以上にコミュ力が高くなることはないし、「非コミュ」はいくら気遣いを心がけても「非コミュ」から脱出できることは残念ながら望み薄であろう。