はてなキーワード: 通俗とは
増田では概ね有意義な反応が尽きたようなので、戦闘的でも粘っこくもなさそうな方に試しにトラバ。
http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20080814/1218670547
さて不謹慎な表現など多々あるかと思うけど、以下に私的な疑問・論点をまとめます。
時間掛けて経営学や医学や倫理学や歴史学を学んでたら、軽くクリアーできる論点・誤解もあるかも知れないけど、その他も含めてご容赦を。
●論点1 トリアージを「極限状態」と呼んで忌避するが、何を以て「極限」と呼ぶのかが恣意的だと思う。
●論点2 「極限状態」という一種のフィクションを前提としなければ、ナチスはホロコーストを行わなかったのだろうか?
●論点3 「資源の有限性を前提にするな」と言うけれど、実はこの世界ではあらゆる物が有限だったりする。
●論点4 経営学はそもそも社会全体について語る学問なんだろうか?
●論点5 トリアージに関連して「他者性がない」選択と言うけど、その「他者」の扱いも恣意性を含んでいるのでは?
●論点6 トリアージを「全体主義的な決定」「悪しき決断」と言うけど、平等な個人の自由な契約という所からも基礎付けられないだろーか。
●論点7 むしろ平時に「かわいそう」の論理を追求する方が、長期的には「かわいそう」な人を増やすのではないか。
●論点1
トリアージを「極限状態」と呼んで忌避するが、何を以て「極限」と呼ぶのかが恣意的だと思う。
たとえば、短い時間で選択を迫られるという意味でなら、(汚い例で恐縮だけど)映画館で上映開始数分前に便意を催し、
そこで素早くトイレを済ませるか、そのまま2時間前後我慢するかなど分単位で決断を迫られたりとか、
あるいは語源となる(らしい)コーヒーの選別作業など秒単位で決断を迫られる行為が、実は日常でもよくある。
もちろん時間以外の資源をモノサシにする場合も同様に議論を進められるはず。
つまり、時間等の量的な制約をその条件とするのであれば、いわゆるトリアージ以上に「極限状態」とみなせる
選択はいくらでも存在することになり、なぜトリアージだけを取り上げて「極限状態」と呼ぶのかがわからない。
そして呼ぶだけならいいとして、そこに殊更特別な意味を見いだそうとする行為には恣意性が入って来ないか?
明確な基準がなくはっきりしないせいで、そうした疑問が浮かんでしまう。
もし資源制約等々を最初から全部取っ払って、人の命を「切り捨て」るプロセスを指し「極限」と呼ぶのであれば、
蘇生行為の中断や、人工呼吸器の取り外し、あるいは脳死判定?など、(当事者にとっては非日常ではあるものの)
平時の医療行為の中にもそれらは存在する。これらはいずれも倫理学的検討に値する問題ではあるんだろうけど、
今回の問題意識とはずれているのではないかという気がする。なぜなら、経営学講義中の「資源制約下の選択」
というトピックで取り上げる事は難しいと思えるから。よってこれも不適。
ここからはさらに妄想。そこで「資源」の意味をもう少し拡張し、技術水準まで含めるとしたら?
現代医療で人工呼吸や蘇生や脳死判定が要請される重態の患者でも、実は簡単に救えるほどの医療技術が
遠い将来いずれ誕生する事を想定すれば、それらの現場を「極限状態」と呼ぶ事も可能かも知れない。
けれど何事も有限なこの世界で、資源の有無は所詮相対的な問題でしかないから、逆に心臓マッサージも知らない
ような時代まで遡れば、現代医療は「極限」でも何でもなく、相対的にかなり恵まれた状態だとさえ言えるかも知れない。
だからこの妄想理論も、当然すぎるほど当然ながら、使えないよね多分。
●論点2
「極限状態」という一種のフィクションを前提としなければ、ナチスはホロコーストを行わなかったのだろうか?
トリアージの現場では、住所氏名年齢性別人種思想信条宗教経済状態等ではなく、たとえばSTART法に
代表されるように、あくまで症例とその喫緊性を判断材料にして、医療資源の配分が決定されて行く。
そこでの個人は、生存者の最大化という観点から、同じ人間同士限りなく対等に扱われると見ていいはず。
他方、ナチスはアーリア人種なんかにとって、異民族共産主義知的身体的障害者等の存在が有害だと
訴えてたわけで、その排除は平時であると有事であると問わず、進行していたんじゃなかろーか。
不謹慎な言い方をすれば、対等ならざる「異分子」の排除は、保健所の動物駆除のように、
生存権や私有財産権その他の人権を持たざる者と扱った上で、粛々と進められたんじゃないかなと。
また日本や北欧等でも障害者・社会的弱者の断種手術が進められたけれど、これらも特に有事であるからと
行われていたわけではないはず。社会ダーウィニズムや通俗的な理解によって「市場原理主義」など(あるいは
「原理主義的資本主義」?)と呼ばれる淘汰のプロセスは、ある緊急時の必要に応じて進む(進められる)
と言うよりは、むしろ長期的に徐々に着実に進行していくモデルだと考えるのが妥当だと思う。
そして比喩としての「極限」的危機のアピール自体は、かつてのワイマール共和国を含む(民主主義・非民主主義問わず)
あらゆる国家で行われる、支持者獲得の為の常套戦略で、たとえば、核戦争や原発メルトダウンの恐怖を時に過剰に煽るのも、
類似の行為と言えるのでは?ナチスに特徴的な行動として取り上げるのは些か困難じゃないかと感じる。
以上の点から、トリアージを差別的な(どころか相手を人間扱いしていない)ホロコーストとなぞらえるのは
間違いであるし、また仮にトリアージが「極限状態」の選択であると仮定しても、ナチズムやホロコーストとの
同質性を認定するのは恣意的だと考える。トリアージの普及推進や例示がホロコーストと地続きである、または
そうした考えを広げるというのは、不謹慎である事を除いても有益な議論とは言い難いはず。
そもそもホロコーストの最たる物である絶滅収容所等におけるユダヤ人殺害は、ナチスドイツの
敗色が濃厚になった戦争後半期にかえって加速していたようで、一般的な意味で言う有事への対応や
資源の最適な配分という意図からは、どうも外れた感が強い。元々戦場の論理とは別物なのでは。
●論点3
「資源の有限性を前提にするな」と言うけれど、実はこの世界ではあらゆる物が有限だったりする。
トリアージの現場においては人員物資設備等の制約がボトルネックとなっているけど、そもそも人員物資設備等が
無限であれば、トリアージはもちろん企業経営の探求や経済学的考察など、資源の効率的な配分を研究する
学問・営為は生まれなかったはず。経営学や経済学をはじめ、多くの人間の知的営為はその濫觴において、
現実世界の資源の有限性を前提としており、その有効活用を目的としているわけだから。
たとえば、市場メカニズムの根本を支える価格シグナルは、財やサービスの需要と供給によって決定されるけれど、
供給無限(商品の物量だけでなく運搬供給設備やそれらの生産性等も)であればその価格はゼロとなり、
人は欲望の尽きるまでそれらを蕩尽するはずだが、もちろん現実はそうじゃない。一見価格ゼロに見えても
広告販促込みだったりして誰かが費用を負担しており(そのままでは持続可能ではない)、いずれにしても
「価格」の存在は、資源の有限性がこの世界に付き物だという事実を、端的に示していると言えるわけ。
またたとえば、かつて環境問題が今ほど注目されなかった時期には、社会的制限が存在しない中で
工場は排煙を垂れ流し放題だったけど、現在では空気ですら無限ではないというのが、環境問題を認識する
あらゆる人間の知る所で、その為に各種の環境規制や課税が行われ、少なくとも先進国では、工場経営者も排煙その他の
公害原因の扱いに注意を払うようになっている。逆に各種エネルギーに補助金(それは低い技術水準とワンセットだが)を
与えている中国やインドなどは、その凄まじい蕩尽によって資源の国際価格高騰や各種公害の原因としても台頭している。
以上のように、資源が無限か有限か(≒価格がゼロか否か)は、その資源を効率的に扱うインセンティブを決定している。
そして、およそあらゆる物に価格や税金、規制が付きものなのは、それらが現に有限だからに他ならず、
経営学・経済学・トリアージはもちろんとして、多くの人間の知的活動はその資源制約によって発展・流転を促されてきた。
よって「資源の有限性を前提にするな」という主張は、現実を無視し多くの知的活動を否定する行為に等しく、場違いな指摘だと考えます。
有限性の前提や資源の効率的利用・効用最大化と言った考えがナチズムへとつながるのであれば、必然的にこの世の
学問・営為・制度・生活習慣は、その多くがナチズムの眷属となり、今回の件を特別批判する意味は限りなく薄まるはず。
●論点4
上と関連して。経営学はそもそも社会全体について語る学問なんだろうか?
経営学と経済学は、もちろん共に資源制約の下での効率的利用を目的とするんだけど、後者が主に
社会全体の効用最大化を目指すのに対して、前者は時に社会全体の効用をかえって損なう決定を推奨しかねなかったりする。
既に上で述べた環境問題における企業行動が典型例だし、あるいは独占や寡占の追求、他企業とのカルテル、
最近も相次ぐ情報の非対称性を悪用した偽装問題など、企業は時に利益追求という存在意義に忠実なまま、
社会全体の最適化からは逸脱しちゃう場合がよくある。そうした行為には違法な物からグレーゾーンまで何でもあり。
他に経済学の概念上でだけで考えれば、ブランド構築・製品差別化、特許等の独占的使用販売権の取得等も、
完全競争を避ける狙いから行われる、社会全体の最適化に反した行動とみなせる。もちろんこれらの場合は
消費者や社会の利益となる場合もあるんだけど。ともかく経営が目指すのは本質的に部分最適・部分均衡なわけ。
このように企業はいろいろな経営的実践を通して、市場における競争を避け、超過利潤・独占利潤を得ようとする。
それに対して、各種公害規制や独占禁止政策・不正競争防止、情報の非対称性の排除などを通じて、市場メカニズムの
健全な作用を維持し、また時に所得再分配を考慮し、社会全体の効用最大化を目指すのが、一般的な意味で言う経済学の使命。
つまり、別々の学問として定立している以上当然なんだけど、経営学的実践における「全体」と、
経済学的・政治的・社会的実践における「全体」とは、多くの場合かけ離れているんだね。
よって、(仮に)経営学的営為の例としてトリアージを取り上げる場合でも、それらが一般的な意味で言う「全体」、
社会や国家全体に敷衍されて適用される恐れがあると考えるのは、学問の目標を見誤った、飛躍を含んだ主張じゃなかろーか。
●論点5
トリアージに関連して「他者性がない」選択と言うけど、その「他者」の扱いも恣意性を含んでいるのでは?
既出のようにこの世界のあらゆる物は有限であり、ある選択は必然的に他者の選択を制限してしまうのが世の常。
だからたとえば、日常の買い物で財布の中身と照らし合わせながら商品を決める(予算制約下の最適化行動)裏には、
売り上げ好調で繁栄する勝ち組企業と同時に、売れない商品を作って経営不振に陥り、場合によっては
倒産する「かわいそうな」負け組企業の存在があったりする。ひょっとしたら「切り捨て」られたその経営者は
自ら命を絶ってしまうかも知れない。その他日常ありふれた選択が、当然のように多くの他者の運命を決定している。
政治上の決定で見ればもっとわかりやすい、再分配は必ず財源を必要とする。
たとえば公共事業を削ればどうしても倒産は増えてしまう。増税だって薄く広いだけで景気を落ち込ませずには居られない。
以上のように考えれば、無視出来ない他者の範囲は空間的・時間的に際限なく広げる事が可能であり、
トリアージだけを取り上げ、その「他者性がない」側面を強調する行為には、恣意性が含まれているのではないかと。
●論点6
トリアージを「全体主義的な決定」「悪しき決断」と言うけど、平等な個人の自由な契約という所からも基礎付けられないだろーか。
仮に「災害時に被災・負傷し、物的人的制約のある災害医療の拠点に搬送された場合にどのような治療戦略を望むか」
という契約をあらかじめ(被災時に意識を失えば意思の確認が出来ず不公平なので)交わすとすれば、
そして公序良俗に反するという立場から、金銭などの代償を対価とした優遇や、自己犠牲を禁じ手とすれば、
自由かつ平等な個人は、期待生存率を最大にする為=自分自身の為にトリアージを選択する権利を行使するはず。
これが全体主義国家ならマイノリティは放置され、地位や能力のある者の治療を優先させられるかも知れない。
よってトリアージは「みんながひとりのために」でも「ひとりがみんなのために」でもなく、
「ひとりがひとりのために」という個人主義をベースとした選択と考える事も十分可能だと思う。
また自分の命が常に他者の命と可換であるという強い認識が働くから、他者認識がないという批判も的外れとなるはず。
(ちなみに治療従事者自体はロボットだって構わないわけで、その他者性認識を問題にする意義は仮想の話の上では薄いと思われ)。
以上はリベラリズムの基本である無知のヴェールのアイデアを多少拝借した物。
無知のヴェールとはリベラリズム上の社会正義のあり方を考える思考実験で、それを被された者は他人はもちろん
自分も含めたあらゆる属性・・・住所氏名年齢性別人種主義主張経済状態等々・・・がわからなくなってしまう。
その状態で、各個人は自身の利益も含めもっとも望ましく公正な社会の条件を考えてみよ、というのが実験の中身。
で、リベラリズム上の議論においては、その条件の下で「格差は最も弱い立場の人々の効用を最大化する目的でのみ正当化される」
という「格差原理」が導出される事になっている。では、トリアージの現場において、それがどのような人々に当たり、
かつその条件の下で選択要請される治療戦略とはどのような物になるだろうか、ちょっくらこれを考えてみる。
まず被災患者を症例・緊急度により以下のように分ける。
A.所与の医療資源・技術では、どれだけ治療を施しても亡くなってしまうとされるグループ(START法では黒いタグを付けられる)
そして以下のように選択可能な治療戦略が提示されているとする。
1.治療を受けられない人は「かわいそう」だから「公平に」症状は無視し、医療資源を人数分で割って全員に割り当てる「平等戦略」
2.治療を受けられない人は「かわいそう」だから「公平に」症状は無視し、各人へのくじ引きで割り当てを決める「機会均等戦略」
これら5つの内であれば、各人は全体最適など考えずとも(それを考えるのが完全な悪というのもおかしいんだけど)、
個人の利害に触発されて、自由かつ平等な権利の下に、最も自らの期待生存率の高い4のトリアージ戦略を選ぶはず。
ではその場合の「最も弱い」人はどの患者グループなのか、その効用はどうなるのかを不謹慎な表現も交えるかもだが次に検討。
もし医療資源を注ぎ込んでも「ほぼ」助からない黒いタグ、この場合グループAの患者だとすれば、どのような治療戦略においても
「ほぼ」死亡という結果に終わり、効用は「ほぼ」不変=「ほぼ」常に最大だからトリアージを選ぶ事は「ほぼ」許容される。
次に死亡状態とみなされる人ではなく、助かる可能性はあるが治療を必要とする赤や黄色のタグ、グループBに含まれる患者を
「最も弱い立場」とするならば、トリアージによって最も手厚く医療資源を配分される事になるから、やはり許容範囲となるはず。
問題はもちろんグループAについての「ほぼ」の取り扱い。技術水準の問題として閑却する事も話の上では出来るんだけど、
(前にネタのした時は確実に生存率を判定出来ると仮定したので簡単だった)、現実のトリアージではそうは行かない。
ただ、いずれにしても確率的な選択を強いられるのであれば、やっぱり4のトリアージ戦略しかないと思うんだけどね。
あと検討の順序が逆だったり、戦略や条件の設定の重複・恣意性等あるけど、まあ素人なんで大目に見てくださいな、と。
基本的には無知のヴェールまで降りて議論するまでもなく、最初の期待生存率+公序良俗の「治療戦略選択契約」の話で
大体OKと思うし、そこで「全体主義的」なる批判はシャットアウト可能だと考えてます。よってここらでこの論点終了。
字数制限でhttp://anond.hatelabo.jp/20080817193711へと続きます。目障りでごめんなさい。
そもそも、経営学は「全体」について考える学問じゃないんと思うんだよね。
たとえば、一時流行った「ブルーオーシャン」なんて、要するに「独占寡占は美味しい」という話だし、
経営学的発想とは、いかにして競争を回避し超過利潤を確保するかという課題への取り組みでもあるわけ。
それに対して、時に独占へ介入するなどして経済を競争的に保ち、社会全体の効用の最大化を目指す
というのが一般的な経済学の姿。とりあえずこの両者は別物で、だからこそ別々の学問として定立している事がわかる。
「経営学は社会全体について語る物」という誤解から、トリアージだからホロコーストだみたいな
品のない暴論が飛び出したんだけど(まあ仮に全体について語る物であったとしても噴飯物の妄想だよ)、
要は「トリアージを経営学として社会全体に敷衍し全体主義社会へ」という決めつけは、最初から矛盾を孕んでいたんだね.
誰かさんのセリフを借りれば「ちゃぶ台返し」的に、立論の第一歩から間違っていたわけ。
この騒動の流れ的に言えば、通俗的な女性のイメージや、トリアージという命の係わるデリケートな問題を
公開の記事にした点で(あるいは実名blogで顧客を侮辱するという失策をした点で)、件の先生が各方面へ
お詫びに追い込まれたりして、その点は既に決着がついているから十分だと思うけど、そこへ何を勘違いしたか
「あ??こいつなんか弱ってそう、俺様の知的関心のいい餌食だやっちまえ」的な勢いで、マニア的な屁理屈で
大した検討もなしに相手をナチ呼ばわりした馬鹿者がいたという話だね。
漫画版の『NHKにようこそ』は引きこもりの話ではな い。主人公は原作小説ほどネガティブでも内向的でもなく、世界と敵の関係について考え込んだりもしない。自意識のベクトルが、原作ほどの自己嫌悪へは向か わず、他人や他人からの視線への過剰な関心という形で現われる。では何の話なのか? それは「誰かのために」の物語である。
中原岬は幾度となく言う
「つまり…私は…/ひきこもりを助ける
その…/天使みたいな…/もので…
決してからかってる/わけじゃなくて…/本気の本 気!!
つまりボランティア/みたいなもので…/別に佐藤君が 好きとか/そういう……」(2巻p123)
「あたしは佐藤君を/天使のように助けようと思っ て……」(2巻p168)
「わ…私は/弱者に優しい/天使というだけのことです」 (3巻p163)
「な…何ですか/関係ないじゃないですか!/私はただ天 使だから…
佐藤君を助けなきゃ/いけないから!/クーリングオフ を申し込みに/来ただけじゃないですか!!」(3巻p165)
「誰かのために」は通俗的な用法としての「共依存」と 言い換えてもいいかもしれない。「共依存」の人は、自分自身の問題と向き合う前に、身近な「困った」他人の問題ばかりに気を向けて、その問題の解決に身を 捧げてしまう。しかし、そのような態度が、根本的な他人の問題の解決に向かうことはない。というのも、そのような「困った状況」において、世話をされてい る彼/彼女は、自らの努力で問題を解決するチャンスを奪われてしまう上に、その状況が続くことを世話をしている彼/彼女が望んでしまいさえするからだ。こ れが、(やや通俗的な解釈ではあるが)「共依存」ということの意味である。
「共依存」というと、互いに依存するようなカップルな どを思い浮かべる人もいるが、「共依存」自体は一方的な献身においてであっても(むしろそうであるからこそ)発生する。「自分が誰それから必要とされてい るはずだから、自分は誰それの世話をしてあげるんだ!!」と思い込んでしまうのが共依存だからだ。その意味で中原岬は、典型的と言ってもいいくらいの、 「共依存」である。
「共依存」は引きこもりに近い状態ではあるが、社会性 としては引きこもりより一歩進んでいる。一般的に「引きこもり」は自分のことだけに関心が向いてしまい、外界に対しては一切の干渉/被干渉を拒否してしま うというイメージであるが、「共依存」においては少なくとも、「自分を必要としているはずの」他人に対する関心や干渉はあるのだ。これは、ラカンにでも言 わせれば鏡像段階などと説明されるのだろう。
さて、「自分よりダメな人間を見つけたから」佐藤達広 と付き合おうとしたのだという、中原岬の告白は、原作においてはクライマックスの一部をなすほどに、作品全体において重要なものだが、それが漫画版では、 あえて秘密にするまでもないほどに、何度も語られてしまう。つまり、漫画版『NHKにようこそ』とは、既に人間関係が「共依存的」であることが、明らかに なってしまった後の話なのだということにならないだろうか?
興味深いことに、漫画版においては、中原岬以外の登場 人物もみな、多かれ少なかれ「共依存」的である。人間関係の契機がそのような、「誰かのための『優しさ』」として現われることが多い。主人公の後輩、山崎 は言う。
「僕は佐藤さんの事/尊敬してるんです/昔 僕がイジメられてた時……
こんな…ダメな奴なのに助けて/くれたでしょう?
僕…そんなの/絶対ありえないって/思ってましたか ら…」(1巻p31)
3巻で登場するマルチ商法の勧誘員女は言う。
「ただ…私は今まで/秋葉原でオタク相手に/絵を売った り宝石を/売ったりしてきたわ
何故だか分かる?
私の兄がね…そうなの…
…悲劇よね…
それでも兄弟だから/私が養ってあげようと/思って必 死で働いたわ
でも兄は働きもせず/人に迷惑かけるばかりで/部屋か ら出なくなって/もう6年になるわ
そんな人の為に/お金を稼ぐのが/正直虚しくなってき たの…」(3巻p165)
そして極めつけは、2巻で語られる、主人公と先輩女と の関係であろう。この関係が、中原岬と主人公の関係と二重映しに見えるプロットは面白い。主人公は言う。
「もう逃げるのは
やめだ!!
たとえ拒絶されたって/向かい合わなきゃ/今までと同 じなんだ!!
今度こそ/勇気を出して/先輩に言おう!!
別に好きとか/嫌いとかじゃない
ただ俺はこの人に/元気でいて欲しいんだ!!」(2巻 p107)
「そうだ!/そして何より
この人(ルビ:柏先輩)の/笑顔を/守るために」(2 巻p115)
「そうだ…俺は/どうして彼女を/止めるんだ?
結局 死ぬも生きるも先輩の/自由じゃないか?
俺がとやかく/言う権利なんて/ないじゃないか!?
…そうか…/そういう事か
何故 俺が/彼女を助けたいのか/どうしてこんなに/ 辛いのか?
つまり…/俺は彼女の事を――」(2巻p164)
だが、この主人公の純情は、先輩にかかってくる一本の 電話、そして「……私/結婚します!」の一言で打ち砕かれる。「誰かのために」が成就するとは限らない。誰それが自分を必要としているはずだから、と思っ たところで、誰それが本当に自分を必要としているかどうかは分からないのである。そして更には、必要とされているからと言って、誰それに手を差し伸べるこ とが良いことだとも限らないのだ。
このように、漫画版においては、「引きこもり」的な内 向自意識の問題は、半ば解決済みとも言える。「巨大な悪の組織と戦うことなどできなくなった」のが小説版の置かれた状況であるのならば、漫画版は「巨大な 悪の組織と戦う必要すらなくなった」後の話なのである。「もう“デカイ一発”はこない。22世紀はちゃんとくる(もちろん,21世紀はくる。ハルマゲドン なんてないんだから)。世界は絶対に終わらない。もっと大きな刺激がほしかったら,本当に世界を終わらせたかったら,あとはもう“あのこと”をやってしま うしかないんだ」(『完全自殺マニュアル』鶴見済,1993年)に対して、山崎はこう言うだろう「僕らは自殺だなんて/ドラマティックな事に/関われる資 格がありません…/どんなに落ち込んで苦しんでも…/この馬鹿馬鹿しい日常に帰ってくるだけです/もし帰ってこなくても/どこかで馬鹿らしく/死ぬだけで す」(2巻p182)。これが90年代と00年代の差の一つである、というのは安易にすぎるかもしれない。だが、問題意識は確実に転換している。それを進 歩と呼んでいいのか分からないし、「共依存」は、描かれているほど楽なものでもないのだけれど。
「共依存」は自意識の問題を解決し得るだろうか? そ して、宙吊りにされた「世界と敵」の話が、再び思い起こされることはあり得るのだろうか? それが漫画版『NHKにようこそ』において今後注目したいとこ ろである。