はてなキーワード: 偽善とは
いや、世界は・・・暴力・殺人・戦争全て合法の自由競争なんだがw
日本や先進国家では、力を持ったマッチョが、そういう感じだと、愚民共を管理するのが『ウゼェ』って理由で
大は軍隊、小は警察という暴力の力を持って、暴力を押さえ込むという自由を満喫してるだけ。
軍隊相手に勝てるだけの力があるなら、なにをやっても、全部合法だよ。きっと。あなたが、法だから。
力が全て、というなら、今の貴方は力に負けているだけなんだから、受け入れて、下に付くか、自衛隊やアメリカの軍隊以上の力を身につけて、力で世界を屈服させればいいでしょ?。
力もないのに、暴力をふるう自由をクレというのは、それこそ、自己矛盾した発言だろ?まずは、力を身につけて、マッチョになれよ。
それに、偽善も又、力だしね。いいじゃん、偽善という力をふるっても、あなたのいう力が全てというのになんら矛盾しないよ。
と、トータルでオモウ。
結婚している周りの人を見ていると不幸になったんじゃないかと思うケースが多い。
DQNのようにでき婚でもしていっきにくっつくくらいじゃないと結婚なんて出来ないんじゃないかと思う。
くその上にくそがあるような生活をしているとますます三次元に希望がもてなくなる。
恋愛も資本主義を維持するためにあるもんだし、バレンタインもホワイトデーもくだらない。
友達がavにでていたり、親が浮気していたり、メンヘラ女に警察沙汰のもめ事に2回まきこまれたり、でも私の実家は結婚しない男の人に対して生き遅れのような扱いをされる。
若くして妻と死別してもだ。
ネットで同級生を見ていても結構できちゃった結婚していてワロタ
pixivの採点機能なんてご祝儀点数だったり、ジャンルで稼げたりするもんなんだから点なんざ付けないか10付けるか、みたいなもんだし、見た人の主観による評価なんだから何点付けてもいいじゃないと思うんだけど世の中には
「いきなり6点付けられたのでカチンと来た。」
「かなり頑張って描いたのにアンチ○○がつけたとしか思えん」
「8点未満は嫌がらせとしか思えない6点とか付ける奴の気持ちがわからない。付けられたほうの気持ちが分からないのか。」
「模写に1点付けられてる絵も見かけたひどいと思った。模写でも1点は可哀想」
「俺は偽善者なので10点付けてあげたよ!」
「どんな点数でも謙虚に受け止めるべきでもかなり頑張ったんだから6点程度の絵だったとは思いたくない」
「頑張って描いたことを説明文でアピールすべきだった?」
なんて鼻息荒く叫ぶ人もいるんだなーと思い知った。
小さい頃に親や兄弟と遊んだ記憶がない。俺の中では家庭という存在すら人間が抽象的な家族という糸で繋がっているに過ぎない脆弱でまた抽象的な存在に過ぎなかった。そしていきなり保育所というすでに完成された社会性を持つ環境に放り出され、そこに君臨していたイリーガルな存在―未就学児にいつもボコボコにされていた記憶しかない。
ある日は保育所に行きたくないと泣き喚き、親や周囲に迷惑を掛けたが、結局自分の意思は伝わらないまま終わった。
元凶は保育所、イリーガルな存在である未就学児にあったのではない。家庭にあったのだ。しかしそれすら気付かぬまま時間だけが過ぎていった。
ポジティブな面を持ち合わせていない俺の性格は一層歪んだ。俺を暴行した奴には今でも死ねば良いのにと本気で思う。
しかしこの頃唯一学んだ事がある。人類には人間未満の奴が混じっているという事だ。
親が仕事の都合で引っ越す事になり、一度俺の周囲はリセットされた。田舎だったが、周囲は小さい人間ながらも優しく接してくれた。暫くするとその人達とも親しくなりやんちゃな良くいる悪餓鬼として育った。
何が他人の迷惑になり何が他人の迷惑にならないかを分別できたし、子供だからまだ可愛げのある悪戯に励んでいた。大人達はそれで赦し、同時に満足し、俺も他人に認められやっとのびのびと生活する場を見出す事ができた。
この頃の自分の写真を見ると今とは似ても似つかない充実した顔付きをしている。どこからどう見てもまともな人間だ。
義務教育が始まった。簡単なものだったが学校では当然疲労もある。家庭はそれ程落ち着いたものではなかった。というよりアイデンティティを認めてくれる様な場所ではなかったので、居場所が無く常に癒される事もなかった。毎日宿題は意図的にやらずに放置し、耐えた今日は忘れ明日が来るのを恐怖した。その為内申は悪かった。
友達はいなくなった。心身共に余裕の無い人間に友達という存在が維持できるはずがない。
6年間、いろいろな事があったが全て水の泡だ。何ら俺の人間形成に役立ったものはない。毎日が作業の繰り返し。逃げたくなる時も当然あったが子供に一時的な逃避以外の選択肢はなく、意思表示すら許されず、貴重な時間は金へ変換される事もなく消滅していった。
本来ならば楽しいはずの遠足や修学旅行にも全く参加しなかった。俺にとっては体力を消費して楽しむだけの余裕は無く苦痛以外の何物でもなかったし、これらが与えられた許容される逃避行動の内の最たるチャンスだったからだ。
小学校高学年の頃の自分の写真と就学前の写真を比べると、顔付きに大分差ができている事に気付く。表情筋は弛み、口呼吸になり、目はどこを見ているのか分からなくなり、眉は「自分は哀れな人間です」と外部に漏らしているかのようだった。馬鹿だ。
相変わらず家庭でのキャパシティは小さい一方、学校での負担が増える。
運動部への入部は強制だった。
己の所在が分からなくなる。いや、元々無かったのかもしれないが、それを自分の中で肯定するのが怖かった。
ただ一点評価できる所がある。偽善だ。
俺は肯定する事によって他者を自ずと否定する事になるのではないかと恐怖したのだ。
ただ何もしない、動く事もままならない、それだけがその肯定/否定という行為から逃れられる方法だった。
授業中、公の場で侮辱され泣いた。様々な理由が心の中で混沌とし、涙する事が耐え切れなくなったからだ。
なぜ俺だけがこんな目に。
みなは充実しているのに。
なぜ俺だけが差別される。
みなは楽しくしているのに。
なぜ俺だけがこんなにも貧相なのか。
みなは恵まれているのに。
なぜ俺だけが気付いてもらえない。
こんなにも哀れならどれだけつらいか分かるだろう。
しかし誰にもこの気持ちは言えず、不登校になった。
中学自体の偏差値は高かったため、同級生に会わないようにするためには高校は底偏差値を選ばざるを得なかった。
この頃から親からくすねた金でPCや参考書を買い漁り独学で数学とプログラミングをやり始めるようになる。罪悪感はあった。同時に今までこんな俺を放置し続けた親に対する怒りもあった。だからある程度技量が上がるまでこの癖は直らなかった。本当は親に対する怒りではないのに、今までの環境に対する怒りなのに、その対象は人間の集合体という実体を持たない存在なのに親に対する怒りに勝手に置換していた。親もその集合体の一員だったから?今思えば全て自分の甘えに過ぎないと思う。乗り越えてこそ自分のアドバンテージになるものだと思うのに。
余談だが当時の参考書は辞典等が大半だったため、今でも役に立っている。
プロコンで賞を取る。が、そんな事親に言えるはずも無い。所詮人から盗んだ金で得たものだ。自分の熱中できる環境を得られ、更に客観的に評価してもらえ、虚空なものながら満足した。
高校を留年したり強制退学させられたりと転々とするが、結局辞める。
ニートです。毎日が楽しいなあ。これが人並みの生活だと言えるものなのか。
さっさと死にたい。
例1:
「男は顔じゃないよ。」・・・信じられない
「やっぱイケメンだよね。」・・・信じられる
例2:
例3:
例4:
「あなたはあなたでいいんだよ。」・・・信じられない
「だからお前はダメなんだ!」・・・信じられる
・・・・・・どれも、上は俺にとって都合のいい言葉なのに、信じる気持ちになれない。
逆に下は、俺に対しては非常に都合が悪い言葉なのに、何故か信じられる。
上みたいな事を言ってる輩には「テメー1人だけいい子ぶってんじゃねーよ!腹の奥底じゃ下みたいに考えてるくせに!この欺瞞にまみれた偽善者め!!」という憎しみすらも涌いてくる。
逆に下みたいな言葉は「やっぱり俺がダメ人間なんだ。みんなそう思ってんだ。」と、頭っから信じ込んで悲観的な気持ちになってくる。
「人は信じたいものを信じる」と言われるけど、何で俺は「信じたくないもの」を信じて、「信じたいもの」を信じることが出来ないんだろう。
「信じたいもの」を信じてさえいれば、もっと楽に生きられるはずなのに・・・・・・。
http://anond.hatelabo.jp/20090206203231
http://anond.hatelabo.jp/20090205083848
「変な人に好かれる」
そしてその続編という増田が大人気なのはその歪さによる所が大きいと思う。
非モテには嫌悪感がないが、非モテとは関わりあいになりたくない、という歪さを持っている。
この根底にあるのはいじめはいじめられっこの責任という図式だろう。
「私はあなたをいじめたい訳じゃない。
でも、あなたと居たら私もいじめられる。
だから関わらないで。
だって、私もあなたがいじめられて当然だと思ってるから。
でも、嫌ってるわけじゃないよ。
そういう人もいるって知ってるから。
でも、あなたと仲が良いなんて眼では、二度と見られたくないの。」
「いじめられる事の理不尽さ」を分かっている人間は、間違ってもこんな事は口にしない。
努力しても空回りする不器用さを、「いじめられるのは自分のせい」と言われる事は一度ではないはずだし、
面と向って自分を排除する人間よりも、より悪質な言葉だと身にしみているからだ。
元増田のエントリには大別して二種類のトラバやブクマがついている。
ひとつは非モテを優しくするとすぐ勘違いしてつけあがり、ストーカーに陥る危険人物とみなして
もうひとつは、元増田の偽善に首をかしげ、あるいは元増田を含む環境にこびり付いた差別意識を指摘する声。
非モテというのも、虐められっこというのも、あくまで結果論だ。
そうなってしまった、そしてそれが続く要因は本人にあるだろう。
だが、だからといって元増田のような「嫌いじゃないが関わっている事を見られたくない」などという事や
果ては好意を向けただけで犯罪予備軍のように言われる理由も必要もない。
非モテや虐められっ子を本当の意味で普通に受け入れるのは、過度な自己犠牲などではない。
ごく当たり前に一人の人間を、一人の人間として捉え、付き合うだけの事だ。
だが、それができない人間と、社会が横たわっている歪さ、不気味さは、あまりにも大きい。
自分が傷つく事、あるいは傷ついた人間と本当に向き合う事なく大人になってきた社会では
かつて当たり前だった事に、自分が関わる事すらできなくなっている。
けれど、既にそれを「悪ではない」と思ってしまった人間が大半になってしまったら
元増田に好意を示した人間に同情し、元増田の言動に異を唱える人間を「非モテ」と決めつけるエントリは
まさしく元増田と元増田の会社と同じ、歪んだ社会の象徴だろう。
非モテや虐められっ子という存在に同意、あるいは同情する事事態をそれらと同じ物だと差別し、
「自分はそうではない(非モテ、虐められる側にない)」という保身に違いないのだから。
こうした救いようのない中にも、まだ純粋な問いかけがない訳ではない
http://anond.hatelabo.jp/20090207074432
けれど、「いじめられる事の理不尽さ」を分かっている人間は、それが正論だと思っても、こんな事も口にできない。
トラバの中で誰かが言ったように、元増田の、そしてその会社のような存在は
元エントリのような露骨さがないにしろ、既に蔓延してしまっている事を痛感しているからだ。
誰もが「非モテ、虐められっ子」の側に立たない、関わらないのが最良と考えている中では
正論など、夢想以外の何の意味も持たないと分かっているからだ。
元増田に「ごめんなさい」と残した自称非モテのトラバやブクマの大半は、大きな意味など持たないだろう。
面白おかしく深く考えない事で、一番助かるのは一度底辺に落ちたら最後、助かる道もない自分自身だからだ。
http://anond.hatelabo.jp/20090204220710
誰かが文句言ったら中止になるなんて単純な構図なわけないだろ。だったらクレーマーは何でも自分の気分次第で破滅させることが出来るってことになる。そうじゃないだろ。それはまずいと思った人がたくさん居たから中止になったんだろうが。無責任って、誰も他人の人生について責任なんか持ってくんないよ。文句言った奴は代案を出すべきだと思うけど、じゃあ代案を出せるシステムが社会にあるのか?
この注意の意味するところは、別に偏見や先入観を無くそうってことじゃない。
ああ、このフレーズ……
やな響き(笑)
ボクの言う注意とは、↑のような敵対、対立を意味しない。
だって、偏見や先入観と対立する概念って、正しい物の見方だろう?
もうね、ボクはね、正しいとか本当とかいう言葉が出た時点で
脊髄反射で拒否反応をおこしてしまうタチなんだ。
だって、頭が悪くない?アメリカは鬼畜、日本は神州。あれが悪くて、こっちは正しい。この構造。
本当の友情。正しい教育。そう、偽善の匂いがするのも、気に食わない理由の一つ。
『目からウロコが出ることと、目にウロコが入ることは、どうやって区別するんだろう』
じゃあ、ボクの言う注意は何を意味しているのか?
そして、複眼的なものの見方
この二つに、尽きるんじゃないかな。多分。
さっきの、偏見や先入観と敵対する考え方は、単眼的思考だよね。
偏見は間違っている!だもんね。視野が狭いって、うまく言ったもんだよね。
また、ボクは相互理解が平和をもたらすという考えも、極めて疑わしいと思ってる。
だって、もし、極論すればだよ?自分のすべてを他人が理解したとして、その人たちはボクを好きになってくれるかしら?
好きにならなくてもいい。憎まずにいられるだろうか?
人間という生き物の、欲望がもうちょっと少なければ、相互理解は平和をもたらすかもしれないけどね…。
知れば知るほど嫌いあう可能性だって、十分ある。
ボクはさっき、↑のフレーズを視野が狭いといった。こういうことを本気で考えてる人がいるなら
そのひとは幸せである。視野が狭いということは理解の及ぶ範囲が狭いということである。
彼は理解の困難さを理解していないがために、相手方をたやすく理解する。
理解の正体は誤解である。自分が理解していると誤解しているひとは、そうでない人より、ずっと楽天的に
相手と向き合うだろう。そのことは、少なくとも楽天的でないよりは、平和共存に近づくのかもしれない。
ただしその平和は、あくまで利害の及ばない範囲での、蜃気楼のようなものなのだが。
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追記
もうね、ボクはね、正しいとか本当とかいう言葉が出た時点で
脊髄反射で拒否反応をおこしてしまうタチなんだ。
しかしボクは、一方が正しく一方が間違っているという論理に、驚くほど浸っている
失敗しているとき、人は自分が失敗していると気付かない。
だから、対話というものは、やはり重要ですねー
死にたくないなああ最近。そして恐ろしいところは!死にたくないと思いつつ自分が死ぬとは全く思っていないところです!!あれだよねーなんか色々言うけれど、なんかそれ死なない前提で言ってないかお前みたいなときあるよ。いや死ぬよ!どうすんの! ただ、なんだかんだ言っても、みんなは死ぬけど俺は実は死なないんじゃないか説が今のところかなり有力らしい。俺の中では……。考えると発狂しそうなんだよねえー全く発狂はしないんだけど、発狂しそうと書くことによってしか表すことの出来ない感情ってあるじゃん?
それはそうと、ウタダヒカルの曲に「誰かの願いが叶うころ」って曲があるでしょ。俺はあの歌詞の論理がすごい好きダ!!!!!!!!!私の願いが叶うころ、誰かが泣いているけど、自分の幸せ願うことはワカガマじゃないでしょってさ。そりゃそうだよ!!!!!この、かといって開き直っているわけではなくて、っていうこの感じは真理だよ。
要はイエモンの「ニュースキャスターはうれしそうに乗客に日本人はいませんでした」も同じ論理なわけだよ。糾弾してるとかそういうわけじゃなくて、そういう事実があったときどう思えばいいだろうっていうね。もうよくわかんねえからそんな夜は君に会いたいっすっていう単純かつ素敵なラブソングなけわけじゃん?それを捕まえて偽善だとか勘違い甚だしい時代遅れの解釈を晒しているバカはしんでくれ!!!!
以上です。さようなら