はてなキーワード: 信徒とは
週に一度しか大学に行かなくても、大学生というだけで認められる節がある。
雑談の中で、大学の学部が扱う学問が役に立つ、立たないというカテゴリーに分けられることがある。
役に立たない学問というと哲学や文学、宗教学の名前が挙げられる。
もちろん役には立たなくても、知の追求はできる。アカデミックな議論は面白いものだし、大学の中では知というものさしで評価してもらえる。
一方で、社会人への通過点として、ねらいを持って大学にいる人がいる。
医者になりたくて医学部を受験する人、ミュージシャンを志す音大生、教職志望者など。
大学の方はそっちのけでダブルスクールや公務員試験対策に力を入れる学生もいる。動機の強さはそれぞれだろうけど。
彼らは自分たちが大学生であることにまっとうな理由をつけることができる。
では、知の追求に没頭することは何なんだろう。
これだけ○○学に打ち込みました!っていうのが社会での有能さのアピールだろうか。
いわゆるオタクとはどう違うんだろう。
一方で僕自身は、何事にもだらけて酒飲んでたタイプです。
大学でゆっくりしてしまった人に強みってあるのかな。
たとえて言えば、あくまでも、たとえなので不正確だけど。
というのは、同じようでいて微妙に違う。
これを、
キリスト教の信者の女性 は ヒンズー教の信者の女性の幸福を見て、違う部分を発見して、あれは違うと言い、
ヒンズー教の信者の女性の幸福 は キリスト教の信者の女性の幸福 と違う部分を発見して、あれは違うと言い
言い争いになってしまう。人それぞれ価値観が違うので、女性だから、と言っても
国・地域・宗教・年代・環境、様々な要素から価値観が違うので、必ずしも子供を産むことが女性の幸福とは言い切れない。という事。
価値観の1つとして、子供を産むことが女性の幸福であると考える人もいる。というのは、あってるけど。
子供を産むことが女性の幸福である。というのは、誤りだと思う。
たとえをさらにたとえると
シスターなどは結婚しないし、そのせいで子供も作らないけれども、それはそういう選択だし
その延長線上で、生理的嫌悪感などから子供を作りたくないという女性がいるならば、その人にとっては子供を産むということは不幸なのかもしれないし、
単なる勘違いで、実は、子供をもうけた方がよいのかもしれない。
でも、それは、その人と、その人の周りの人が話し合って決めることだから、第3者がどうこういうことじゃない。
そうやって、統合的に考えていくと、XXさんにとっての幸せというのは、XXさんとその周囲が話し合って考えて、決めること。
だから、その周囲にいない第3者が、女性の幸せってXXだよね。とか言うのは、ちょっと違うと思う。という事と
たまたま宗教上子供を作らないと決めた人や、その他の理由から子供は作らないと決めた人への配慮が足りない発言じゃないか?
という事。
生きていればそれで幸せ教は「はてな匿名ダイアリ」から発生した多神教である。
はてな匿名ダイアリでの下記の書き込みが直接の起源であるといわれている。
http://anond.hatelabo.jp/20081019202806
自分で「生きていればそれで幸せ教」を設立する勢いで行け。
この時期、多くの生きていればそれで幸せ教徒は、宗派に属したという意識をもたなかったとする学説が、現在の主流を占める。
21世紀初頭のアメリカから始まった金融危機以降、「生きていればそれで幸せ教」が「勝ち組・負け組み教」から独立して「生きていればそれで幸せ教」としての自覚を持つに至ったとされる。
好景気以下での「生きていればそれで幸せ教」は「勝ち組・負け組み教」「恋愛すぃーと教」と相容れず、また、過度な努力を拒んだため、社会の異分子としてしばしば注目された。
ニートだの、ワープアだの蔑まれ、信徒は何度かのいわゆる大迫害を経験した。
しかし、時の総理大臣、杉村太蔵により公認され、その後、日本の国教とされた。
生きていればそれで幸せ教の教義をもっとも簡潔に述べているのが信条である。以下に重要な信条をあげる。
・社会にも他人にも自分にも期待しない。
・恋愛はイケメン・美女という動物が行うもので人間が行ってはいけない。
・労働を行うことは、敗北である。
・我々は負け組みではなく、あらゆる欲望から解放された新人類である。
信者には、平信者と聖職者に分かれる。聖職者は、魔法使い、ニート、ホームレス、即身仏に分けられる。
魔法使いとは性欲から開放されたもので、30歳になるまで性行為を行わないことで昇格する。
ニート、ホームレスの区別は共に働かないことであるが、ホームレスは家からも自由になっているため、「生きていればそれで幸せ教」においては階級が高くなっている。
即身仏とは、瞑想状態のまま、断食をおこない、そのまま仏になったものである。食という概念から開放され仏となり、永遠の生命を取得するこの職種が最高位とされている。
一部、異教徒の手先であるマスゴミからは都会の孤独死だの、無職の男性が食事もとれずに餓死だのとネガティブな報道がなされているが、これは、自ら食を立ち永遠の命を手に入れるという荒行を冒涜するものである。
即物的なものから解放されない、未熟な信者のために以下の特典が用意されている。
・ニコニコ動画にて時報OFFが行える。
とりあえず大臣の地位にあるような人が、一新興宗教の信徒であることと公人であることのどちらを優先させているか分からない状況
こんな状況あったっけ?
憲法20条第1項
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
この「政治上の権力を行使してはならない」が、『制度としての信教の自由を保障するためだけの文言である』とする考え(たとえば直接信教の自由を侵すような政治権力の行使のみが禁止されている=「犬を神様としあがめなさいという法律を作るのはNG」みたいな)もあるが、それだけでなく、戦前の国家と神道の癒着・そこからくる非合理的政策や判断を無くし近代的合理性や人間性を回復することを目的に、『とにかく宗教が政治に口出すな、と釘を刺したルールだ』とする考えもあって、後者の立場からは前者が憲法の条文を弱めようとしていると批判されてる。その立場からすれば、とりあえず大臣の地位にあるような人が、一新興宗教の信徒であることと公人であることのどちらを優先させているか分からない状況というのが気持ち悪く感じられるのも当然かと思う。別に前者の立場を知ってるか知らないかという問題ではないと思うよ。
俺は政教分離自体は教条的に守る必要はないと思う。
世界中探しても日本より政教分離されている国はほとんど無いしね。
ただ創価は明確に信徒以外を敵とみなしている団体なので政治を担う資格はまったくない
http://anond.hatelabo.jp/20080902135236
公明党は今何やりたいかって言うと単純に勝ちたい、じゃないかな?
目的=勝つ だと思うんだ。まぁそのあたりは創価学会からの仕様だけど。
そういや俺の実家の地方でやる会合ではではおもいっきり公明党disってたな、まあ建設的な議論だったけど。
政策がどうだの言ってたなぁ(懐かしい)
あとな、政教分離の話はグレーじゃなく白だろ?政教分離の意味はき違えていないか?
そこらへんは自民も民主も社民も共産もかわらん。というか海外も変わらん。
戦前の靖国(と言うか”天皇教”と言うべきか)みたいに国が信仰を強制しているんならわかるけど、
別にそう言う訳じゃないのに何言っているんだか。
http://anond.hatelabo.jp/20080902141035
中東あたりのイスラム国家など、宗教国家総スルーですね、わかります。
==========追記============
http://anond.hatelabo.jp/20080902185644
今日びそんなこと考えてる奴はほとんどいないと思うけど。→信徒以外を敵
http://anond.hatelabo.jp/20080315152400]
これを全部読んでいない人間は「猿」です。
ちなみに猿に人権はありません。ネットで表現をする権利も自由もありません。よく覚えておくように。
レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫
ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫
ハイデッガー『存在と時間』ちくま文庫, 岩波文庫, 中公クラシックス
ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』複製技術時代の芸術, 晶文社クラシックス
ポランニー『大転換 市場社会の形成と崩壊』東洋経済新報社
デリダ『グラマトロジーいについて』
海外文学
『唐詩選』岩波文庫
シェイクスピア『ハムレット』角川文庫、新潮文庫、岩波文庫、ちくま文庫
ゴーゴル『外套』
ポー『盗まれた手紙』
エミリー・ブロンテ『嵐が丘』
メルヴィル『白鯨』
フローベール『ボヴァリー夫人』
ドストエフスキー『悪霊』
カフカ『審判』
魯迅『阿Q正伝』
トーマス・マン『魔の山』
ザミャーミン『われら』
ムージル『特性のない男』
セリーヌ『夜の果ての旅』
フォークナー『アブサロム、アブサロム!』
ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』
ジュネ『泥棒日記』
ロブ=グリエ『嫉妬』
レム『ソラリスの陽のもとに』
エリオット『荒地』
ブランショ『文学空間』
日本文学
樋口一葉『にごりえ』
田山花袋『蒲団』
有島武郎『或る女』
志賀直哉『小僧の神様』
内田百〓『冥途・旅順入城式』
江戸川乱歩『押絵と旅する男』
横山利一『機械』
谷崎潤一郎『春琴抄』
川端康成『雪国』
太宰治『斜陽』
大岡昇平『俘虜記』
野坂昭如『エロ事師たち』
島尾敏雄『死の棘』
古井由吉『円陣を組む女たち』
後藤明生『挟み撃ち』
円地文子『食卓のない家』
中上健次『枯木灘』
斎藤茂吉『赤光』
萩原朔太郎『月に吠える』
坪内逍遥『小説神髄』
正岡子規『歌よみに与ふる書』
石川啄木『時代閉塞の現状』
小林秀雄『様々なる意匠』
保田與重郎『日本の橋』
吉本隆明『転向論』
江藤淳『成熟と喪失』
by 柄谷行人、他
追記
ネットにはほとんど「猿」しかいないんじゃないかと思うことも多いので、是非、脱「猿」してみて下さい。2chは「猿」の巣窟でもかまわないのですが、はてなが「猿」の巣窟であってはインフラ、リソースの損失だと思っています。実のありげな議論が起こっているなと思いきや、はてな「猿」が集団でやってきて議論を潰しているケースがほとんどなので。
思えば私の高校生のときにエヴァンゲリオンが始まった。その頃すでに森博嗣は世に出ていて、それでもなんとなくタイトルを見たか見ないかというくらいでした。その頃私は宮部みゆきと北村薫の子供だった。
いわゆる世紀末を越えて、その名を冠したアニメの影響やフォロワが周りに現れ続けていた頃私は緩やかに行き詰っていた。
学問の壁というべきか、私は師匠に恵まれなかったといえば傲慢になりますが、少なくともベストフィットの環境ではなく、それを乗り越える精神もなく、茫漠とした、とらえどころのない人生を送っていたと思う。これは本当に傲慢とも思われかねないし、上から見下すわけではないのだけれど、世の中を見るとその茫漠とした人生をずっと過ごしている人がいることを感じ、かわいそうではなくつらいだろうなと思う。世にいる、自分の存在を確立しようとして、営業成績よりもずっとあいまいな評価基準の世界に身を置いてそれでもがんばっている人たちよ、幸せであれと思う。
世紀末からゼロ年代にかけそして今このゼロ年代が終わろうとしている、言い換えると完全にゼロ年代しているこのとき、森博嗣が終わるというのだ。カクレカラクリなどと言う爆笑コメディ(あるいは世界初2時間忍耐ドラマ)をもスイッチバックとしてスカイ・クロラが押井守の手によって現れようとしていて、しかもそれはすでに完成している。
今私は森博嗣の理解者でもなく信徒でもなく、ただ個別に1対1で感じ取るだけの独立した存在になっている。
だからその映画や、これからこれまでの著作について私のみがわかっていると言うのは精確ではない。
正確に言えば、「私の森博嗣理解は、私にだけ最高の価値がある」ということになる。
だからこのまま消えていっても私には十分な読むだけの文章が、森博嗣の書いた文章が残った。それでいいはずだった。
だがそれでも現れては消える、この寂漠とした空気はなんだろうか。
創価学会に関して言えば別に直接被害を被ったことがないのだけど、エホバなんかは王国会館?が側にあったせいかよく勧誘が来ていた。個人的にはどうも、布教活動を行ってる宗教団体に対して抵抗や嫌悪感を感じてしまう部分がある。宗教なんて誘うようなものなんだろうか。所謂普通の仏教とか神道はそうそう目立った布教を行っていないじゃないか(まあ既に相当数確保してるから…今更新規開拓なんて必要ないんだろうけど)。積極的に宗教活動を行ってる人って、どういう気持ちなんだろう。往々にして新興だったり少数派な宗教であるほど、活動が積極的なのだけど、その積極性がとにかく気持ち悪い、と感じてしまう。やっぱり自分が属していないグループの拡大に抵抗を感じるのと一緒なんだろうか。でもそれとは別に、自己啓発系の団体に感じるのと同じような胡散臭さと、嫌悪感もある気がする。別にそれで直接どうこうしたり差別したりとかする気はないんだけど、知り合った人が熱心な信徒さんで積極的に布教してこられたら、サーっと引いてしまう気はする。「宗教って!普通に引くわ!」みたいな。信仰なんて口に出すもんじゃない、という思いがあるのかな……
この表現は誤解を招くと思う。進化論自体は、逆に、人間から優位性を奪い去って、神の似姿、万物の霊長を、ただの猿の一眷属に貶めた代物だよ。そしてまた、彼は進化の遅さ、速さといったものや、優劣といったものも問題にしたけれども、それは淘汰圧や適応から説明されている(例えば、外敵が少ないと淘汰が進まない、など)。そして彼は進化の多様性を認めているし、階梯などといった言葉を使っていても(こうした表現は当時普通に使われていた)、そこで彼が言っているのは、恐らく、進化には無数の方向性があり、あらゆる特性にはそれなりの利点があり、それゆえにそうなったのだと言うこと。少なくとも『進化論』として知られる書は、私にはそう読めた。
でも、どんなものも、第三者の思想によって歪められうる。見るといい。諸行無常、色即是空の思想に生きている筈の坊主共が刹那の色に溺れている様を。解脱の思想が、現世利益の思想へ置き換えられている様を。キリスト教徒の中に、どれほど多くマモンの信徒等々が存在しているかを。ナチスが利用したニーチェの思想が、どんなにナチスと相容れないものであるかを。ダーウィンの進化論自体が問題ではない、それを言うならば、ニュートン力学等々は、もっと遙かに人々を殺すことに利用されて来たし、今も未だ、それは利用されている。