はてなキーワード: プロモーションとは
だいたい、Web2.0とかいっていろんな楽しいサービスを立て続ける人たちが、そろいもそろって収益モデルは広告だなんて言っているこの状況はどうなんだ。その歪みの典型例がニコニコ動画。トラフィックの市場価値が下がっているから、動画モデルは回らない。
じゃあ他にどんなビジネスモデルがあるのよって言われてもわからないのだけど。だからこれはただの夢物語。
いや、今住んでいればいいんだけど住んだこともなさそうな人が何人か立候補しているじゃない?
都度の手続きで上京するだけで資金尽きるんじゃないかって気がしているよ。
宿泊とかどうするのだろうか?マンスリーとか借りてるのかな?
http://anond.hatelabo.jp/20070324194346
自分は都下市部にすんでるのだけど、祖父の代までは今は住宅がないような都心住まいだった。
震災やら戦争なんかで焼け出されてこっちに流れてきてる人も多い。
だから03以外は東京じゃないよねーーと馬鹿にされるのがちょっと悔しい。
お江戸は昔から800万都市だもの、そんな田舎者ばかりじゃないぜ。
見た。
これは、JASRACの使用料規定を見れば分かる。
http://www.jasrac.or.jp/profile/covenant/pdf/royalty/royalty.pdf
このpdfファイルを「75時間」という語で検索すると、第11頁がヒットし、それ以外の頁はヒットしない。
この頁は、演奏会以外の催物における演奏であって、楽器店、レコード店、百貨店、スーパーマーケット等での宣伝のための催物における演奏について、入場料の無い場合の規定である。
プロモーションのための演奏などのことでしょう。
プロモーションのための演奏が月額68,000円というのが妥当なのか分かりかねます。
ちなみに、プロモーションのための演奏について、著作物1 曲1 回ごとの使用料の規定もあり、入場料のない場合で利用時間が5 分までの場合の使用料は、150 円。
客寄せのために音楽使っているのに、使用料は踏み倒した。
これは、http://d.hatena.ne.jp/DayTripper/20050201/1107221520のこと。
要するに、幼稚園のクリスマス演奏会のために子供向けバンドを呼んで入場料を取って出演料をバンドに払った演奏会のこと。
誤解している人もいると思うが、幼稚園児が演奏したのではない。
元ネタ→ http://blog.livedoor.jp/jasrac1/archives/4245076.html
登録手続きの不備を悪意で突かれたんで、登録申請した奴が悪い。
オーケンが歌詞をJASRACに信託契約したのなら、歌詞の著作権はすべてJASRACに移転していて、オーケンは著作権を持っていない。
つまり、オーケンが著作権上で認められていく引用範囲を超えて歌詞を使ったのなら、権利者であるJASRACに支払う必要がある。
製作者に分配されている例を見聞きしています。
たけくまめも(http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2006/06/post_795a.html)のエントリーで長谷邦夫氏曰く、
会社をたちあげたとき、管理をさせて下さいと
おっしゃるのでOKしましたが、ホリプロが
OKしなっかた??という報告を受けました。
計算が報告されてきます。
ですね。25%くらいだろうと、計算書もろくに
これってやはりヘンですね。
ホリプロは何もやっていない。
ですよ。原版制作に金を出したわけでもないし。
やはり、業界の中抜き構造があるのは
間違いありませんね。
ちなみに『桜三月??』は『井上陽水全曲集』にも
収録されています。
JASRACは、今では音楽著作権の完全的な独占管理はしていない。
それは、仲介業務法が廃止され、著作権等管理事業法が新設され、これによりe-Licenseのようなライバル会社ができたから。
実力の伴わない連中が評価されてプッシュを受け、あっという間に見捨てられて消費されるシーンが、
実力とは何か?誰が持っているのか?ですね。
売れるには売れるなりの力があるんです。ただ、それが歌唱力ではないだけで。
彼女達が提供しているのはエンターテイメント=芸であって、お客が喜んで、そして、お金を落としてくれればそれで良いのです。そのための「売り」が歌う事であり曲であるだけで、それが(優れているにこしたことはありませんが)特に優れている必要は無く、それ以外に、たとえばファッションやしゃべり等が出来ればそれで良いのです。重要なのはそれらを如何に魅せるかという能力、つまりプロモーション=演出なんです。つまり、その演出の手段として彼・彼女たちがたまたま曲や歌唱を選んだだけで、たとえばスタイルを選んだ人はグラビアアイドルになったり、しゃべりを選んだ人はお笑い芸人になったりするわけです。
そして、それらプロモーションを行っているのは何も本人だけではなく、プロモーター・プロダクション・プロデューサーといったプロがいるわけです。彼ら視点・立場にとっては、お客に次々とお金を出してもらった方が良いわけで、そのためには次々と消費してもらうほうが良いのです。いわゆる消費社会というやつの構造ですね。製造業では資源環境問題で脱却をはかっていますが、発生する物理的ゴミが少ないとか、物理的資源の消費が少ないので問題にならず、そのために残っているサービス業の、その現状の一つでしょう。
次へ次へ新しいカモを求めるうちに本当に実力あるアーティストが分相応の評価を受けにくくなってるのかね。
芸能界・娯楽産業が大衆をカモにしているかどうかは意見が分かれるところかもしれませんが、それは置いといて。
「実力あるアーティスト」とはいったいなんでしょうね?
先の通り、人を喜ばせてお金を頂く芸能人においては、スタイルや歌唱力が如何に優れていようとも、多くの人を喜ばせることが出来なければ「能力がある」とは呼べないのではないでしょうか。いや、確かに何か一つ秀でた芸があれば人々を楽しませることが出来るでしょうが、それにしたって魅せ方があるわけで、プロとしては、やはり演出の力の無さ、その道の人との出会いが無かったという運としか言い様がないですね。古今東西、能力があるから売れるとは限らないわけで。
ふとはてブを見たら、前に仕事をしていた小さな会社の社長が、別の大きな会社の取締役になっていて、小さな会社と業務提携をする発表会の記事が載っていた。微妙に5Users。
ああ、あんな頃もあったな、と。
中学に入ったときにPC-9801VXを入手。高校時代にMS-DOSを操作するいわゆるパソコンおたくとなり、大学時代にLinux, FreeBSDの薫陶を受けた。
そして、大学出るところで怪しげな個人事業主に騙されてベンチャー企業で偽装請負、最初は18万の給料だったか。
そこそこ頑張っていると、やがてそのベンチャーの社長に声をかけていただき、その個人事業主と訣別してベンチャーに入社。気が付くと、ある大手のお客様に納品するサブシステムのリーダーを22の時にやっていた。
だが、開発のいろはを何もしらないペーペーだ。基本設計も詳細設計もぼろぼろというかやっていないような酷い出来で、正常系の1本も通るか怪しいプログラムをお客様に持っていって、ただ一言「動かねーじゃねーか。」と言われて6徹、そこからなんとか作り上げた体力と精神力やら何やらよくわからないものを買われたのか、日本で屈指と言われる大会社の事業部長から、蒼くぼーっと幻想的な雰囲気のバーで「うちに来て働かないか」と1:1で引きぬきをかけられたのを、あっさりと断ったところまでは良かったな。
まるでバブルのような、というか真正のネットバブルだったわけだが、きらめく怪しげな話の間を飛びまわった。異常系がまともにできていない大手小売業者向けのプロモーションシステム、お客様の要件をないがしろにして作り上げた画像配信サイト。
しかし、序盤の奇跡的な飛躍で力を見誤った自分も会社も、徐々に、不可逆的に傾いていった。
そして、度重なる失敗に組織から見放された自分は会社を抜け、25の時にいわゆる中堅ソフト屋に転職した。
ソフト屋にいたおかげで、基本設計書も詳細設計書も書けるようになった。もうぐちゃぐちゃなシステムは書かない自信はある。
だが、新技術は何でも吸収してきた自分が、その後に出てきたRubyやAjaxには、もう付いていくことができない。
今では、ごくごくありがちなオープン系システムのしがない保守要員だ。
ブラウザの上には、きらめいていたあの頃の面影を残す彼がいた。
そこには、確かにきらめいていた自分の残滓もまた投影されていて、そんな彼をブックマークする気にはなれなかった。
それでも、彼の名前を時々思い出しては、Googleに掛けてしまう自分に嫌悪する。
今はてなダイアラーをしているということは、まだ残滓にしがみついてしまおうとしている自分がいるんだろうな。そんなもうすぐ30歳。
htt://d.hatena.ne.jp/fuku33/20070112/1168601308
へー。地産地消ってのはロマンティシズムなのか。ローカリズム(?)というのがあるのかどうか考えてみよー。
fuku33さんは、売り物に対するレッテルの貼り方みたいなものをみているのかなぁ?
そこからなにがしかを読み取ろうとする体系を作ろうという感じなのだろうか。
いや、なんつーか、立場を把握しないと正確なところ(なにを読み取るべきか)がわからんかなぁーって(ひとり言)
fuku33 幻想商品 地産地消という現象はいろんな文脈で語れると言うことです。どの文脈も排除しませんが、僕は「商品を感情充足の手段として見る」ということです。ローカリズムがその大義名分になることもあります。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20070112215710
マーケティングとゆったり、プロモーションとゆったりするものの一種なんだろうか。それをすることによって何を導けるのだろうか。
なんじゃろホイ。革命じゃないけど革命的な進歩が必要なんじゃないか説?
歴史を紐解いてみてもフランス革命然り、ソ連の誕生から崩壊までの過程然り、成功しないのです。ただ成功しないだけならともかく、その失敗という歴史的事実の裏側には無数の無辜の民が蹂躙され、死んでいったという重く苦い経験があるのです。このような経験をしてもなお、急進的な主張をし、その主張を支える理念や倫理観を素朴に唱えている人達に対して私は激しい嫌悪感を感じます。
この論を唱えている方は、いったいどんなトラウマがあるのだろうか?歴史の悲劇は「理念を押し通すことを進歩」と解釈したことに端を発する「理念を押し通すことで進歩する」と信じて行動した結果、革命は失敗しちゃった→なので「理念を前に出してもダメじゃん」と思っているように感じる。
みうらじゅんが言うところのDTというものであり、妄想力が生命力の源となっているというのもあながちいい話。
現代における妄想は「お金持ちになる。」程度のものなのだろう。そのお金持ちになるという妄想は現世はすべからく経済によって回っていて(正確には経済的な認識のみが人類の共通言語)、その上でしかダンスを踊れないというふうに勝手に枠を作ってしまっているんだろうな。
理念というか、いわゆる正義感がなければ行動へと移行するだけのパワーは得られないと思うのだけれどなぁ。要するに、現在話題の「閉塞感」の打破のためには(過去に習えば)革命的妄想が必要なのではないか(と思ったり思わなかったり)
http://anond.hatelabo.jp/20070113024605
生活必需品以外なんて、これをもってる私カッコイイ!と、これを買ってあげてる私カッコイイ!の、どっちかでしか買わない。
たぶんfuku33さんは、キュウリやコークを買う際にもその「カッコイイ!」という感情のようなものを当てはめたとしたらそこにはどういう感情が入るのだろうか?って考えているんだと思います。さらにもっと踏む込むと、それらの感情を整理・カテゴライズすると経済や人の動きをこれまでと違った目線で見れるのではないか?新しいマーカーを社会に設けることが出来るのではないか?と考えているのではないでしょうか。新しいマーカーで社会を追うと新しい説が生まれるのでしょう、きっと。