はてなキーワード: ネットイナゴとは
既に旬を過ぎた話題だとは思うけど、らき☆すた関連で
http://kuki-shimin.com/archives/219
この記事は誇張が含まれていると言うか近隣の住民にしてみれば
ネット上で言われているほど酷いと言う状況ではないし、絵馬なんかも
以前はあちこちに置いてあったのも半ばギャラリー的な配慮で一面に
ファンの度が過ぎた行為に関しては今の所マナーを啓発すればいいだけのことだし
この記事を欠いた久喜市民と言う人間は鷲宮神社を久喜市の物と誤認している節があるし
(実際の所在地は隣にある鷲宮町)まちBBSの久喜関連スレッドにおいては問題のある人物
であったと聞く。つまり電波野郎の戯言ににアンチやネットイナゴが乗せられてしまった感じが強い
ただ、この騒動を思うに有名な作品の舞台が実在する所であったとして、
そこにその作品のファンが集まるのは仕方のないところであると思う。
ただ鷲宮神社周辺は商店街の通りにあるとはいえ周辺は住宅街であり、
さらに言えば廃れた町と言う印象なのだ。さらにはうどんの加須や
フライの行田みたいに何らかの形で人を呼び込む事をやっていなかったので
そういうことに対して慣れていないというのはあったのかもしれない。
(さすがに苺ましまろにおける浜松のように舞台が完全な住宅街であったのなら
さらに言うと今回の件や秋葉原で行われたアキバデモの件がいいように
何らかの軋轢みたいなものが生じてしまっているんじゃないか?
ただ、現実社会ではあくまで現実において行為を行ったものだけを
取り上げる風潮がある、ネットで騒くだけ騒ぐと言うのは
既に限界が来つつあるんじゃないだろーか?。
インターネットは実名ブロガーが発信する質の高い情報のみで構成されているべきだよ。(一般的おぐりん)
インターネットでは思ったままを書きたいけど実名だといろいろ危険なので匿名がいいよ。(一般的インターネット利用者)
どんなくだらない情報でもネットに載せるべきだよ、質の高い情報が欲しけりゃ検索して持っていきなよ。(一般的Google教信者)
もはやこのidこそが魂の名前、真実の名前なのである!(一般的はてな村民)
万引きしてアタック25でカンニングしてエアロバキバキにしてオタクってきんもー☆(一般的mixi利用者・炎上派)
中学の時に好きだったあの人。いまなにしてるんだろう。彼の名前で検索してみようかしら。(一般的mixi利用者・ロマンス派)
いかにも実名っぽく装ってプロフも添えてあるけど全てでっちあげです。(一般的出会い系サイト利用者)
私の前では、いかなる人物であっても実名を隠せない…!(一般的スーパーハッカー)
あれ、なんか途中から方向性が…。
実際は自分のブログに嫌なコメントつけられた所で削除アク禁など対処法はいくらでもある。なのになんでコメント付ける行為だけが悪者にされて「ヲチ先触らず荒らさすマッタリと」っていうヲッチャー行為は最低のネットマナーとは言われないのか?納得いかない。書かれる方にとっては他所の記事で叩かれたほうが対処法が限られていて精神的重圧感はあるのに。それなら不特定多数にコメント求めなくてもいいじゃん。
荒らしの定義を「罵倒発言をする人」っていう人がいたんだけど、実際は荒らしと呼ばれる人はあからさまな罵倒よりも揶揄と曲解と脅し芸のほうが多い気がするし、ささいな発言で大騒ぎする管理人に限って、管理人にとって都合の良い罵倒は感謝こそすれ荒らし扱いしないですよね。
本当は荒らしの定義は「罵倒する人」じゃなくて「サイトの運営を妨害する行為をする人」なんじゃないかな。そういう意味ではかならずしもコメントじゃなくてもいいわけで。極論だけど通報も荒らし行為に入るのかな?
荒らしだ荒らしだと騒ぎながら、結局その荒らし認定者のサイトにクレーム付けて新たな荒らし行為をしちゃうんだからさ。それでどちらかでも相手を閉鎖に追い込むような所までいけば、勝てば官軍負ければ賊軍なんですからね。でもここまですると、いくら勝って溜飲下げた所で流石に冷静なROM専はドン引きだ。キレたらなにしでかすかわからない管理人を遠巻きにして近付きずらくなる。人のの注意も耳に入ず罵倒と捉えるから、誰も注意出来なくなって結局一人になっていく。そうして閑古鳥が鳴くサイトのイッチョあがり!
サイト潰されたほうは悔し涙を堪えつつHN変えて出直し。新しいネットライフを始めている事でしょう。
ネットマナーとはいったいなんの為に必要なのか?勝者の作ったルールなんて破る為にあるのさ。
徹夜明けで寝ぼけてて自分でも支離滅裂、何言ってるのか分からなくなってきた。
del.icio.us のほうの SBM ユーザだけど閲覧時の思考メモとして活用しているよ。
あとから見返して思い出したり文章にしたりするときに役立てている。
判断が難しければ少数派に与すれば良いのではないですか?また、「文章力のない電波が多数に諭されている状態」であっても、少数派に与すれば、たとえ判断を誤っていてもネットイナゴにならずに済むのではないですか?どちらの状態でも、多数派に付く強い理由が見当たりません。
(中略)
はい。文章は誰かの為に書かれた文章である可能性が高いです。
言いたいことはわかりました。しかしあなたは自分が結局のところどういう主張をしているのか、自分で把握できていないように思われます。
たとえば天動説を頑なに信じ、いろいろなところで天動説の正しさを吹聴しまくっている人がいたとします。これに対してみんなが地動説の説明をしているとします。
ぼくはこの状況を「電波が多数に諭されている状態」であると迷うことなく判断します。そして、もし自分にうまい説明が思いついたら多数派に回って一緒にこの電波を諭します。
しかし、もしあなたがこの場に居合わせたとしたら、あなたはこれが「少数の為のテクストがネットイナゴに食いつかれて炎上している状態」かもしれないと考え(というかその判断を放棄し)、傍観者を決め込むか、場合によっては天動説を擁護する言説を繰り広げるでしょう。
なるほど、あらゆる文章は誰かの為に書かれたものです。そして、この電波の文章も、天動説の賛同者を増やすために書かれたものでしょう(そうでない場合もありますが)。そして、天動説が正しく地動説が誤りであるという、万に一つ、億に一つの可能性も否定しきれないのも事実です。したがって、あなたがこの電波を擁護したとしても、多数派を納得させうる根拠を提示したうえでのことであれば何も問題はありません。
しかし、あなたの言っていることからすると、この場合にあなたが電波を擁護したとしても(そして特に何もせず傍観者に徹しているとしても)、あなたはその場の状態が「電波が諭されている状態」か「ネットイナゴに食いつかれている状態」かをまともに区別せずに盲目的にそうしているにすぎません。そうである以上、自分の主義主張を持っていないという点で、あなたはこの電波にも劣る輩であると言わざるを得ません(もちろんあなたがそんな輩でないことぐらいわかります。しかしあなたの言っていることはこういうことです)。
ぼくが
あなたは「当該事象が「(略)」か「(略)」か」という区別をする意味をまったく考えようともせず、区別をする姿勢を放棄して、「そう言えなくもないかもね」レベルの形式的な側面のみを取り上げているにすぎません。
と書いたのはこういう意味です。あなたは現実との対応関係をよく考えず、言葉と言葉の形式的なつながりだけで議論を展開しています。だからそんな変な主張をするはめになるのです。
http://anond.hatelabo.jp/20070619213623、http://anond.hatelabo.jp/20070617200219、そしてhttp://anond.hatelabo.jp/20070617200219のいずれも私が書きました。
「区別することは大事ですよ」というメインの主張
これが理解できません。
多数派か少数派のどちらかに与しようとする場合に、「文章力のない電波が多数に諭されている状態」と「少数の為のテクストがネットイナゴに食いつかれて炎上している状態」の区別はその判断材料となるわけです。
この時、少数派は、それぞれ「文章力のない電波」、「少数の為のテクストを理解する人」で、多数派は「諭そうとしている人」、「ネットイナゴ」ですよね。このうち、あなたは「ネットイナゴ」のみが悪だとしていますよね。であるならば、判断が難しければ少数派に与すれば良いのではないですか?また、「文章力のない電波が多数に諭されている状態」であっても、少数派に与すれば、たとえ判断を誤っていてもネットイナゴにならずに済むのではないですか?どちらの状態でも、多数派に付く強い理由が見当たりません。
傍観者であるぼくは盲目的に多数派に回ってしまうことによって「第三者の暴力」というものに加担することの怖さを考えたりしました
であれば少数派に与するか、傍観するか、つまり多数派にならなければ良いのではないですか?なぜ、多数派に回る必要があるのですか?
はい。文章は誰かの為に書かれた文章である可能性が高いです。
だれ一人として理解する者がいない場合にもですか。
誰か、に自分自身を含めては駄目ですか?自分自身の為に書かれた文章と、見知らぬ誰かの為に書かれた文章、両者に大きな違いがあるとは思えません。
あなたは
http://anond.hatelabo.jp/20070617151042の質問【1】
http://anond.hatelabo.jp/20070617200219の質問【2】
のどちらの質問者ですか?文体が違いますがどちらもあなたの質問ですか?
「「少数の為のテクスト」って多数にとっては電波でしかないんじゃないの?」←これについて「私が書いた」と言っているのでどちらもあなたの質問であると判断したうえでお答えします。
まず、【1】へのぼくの答えであるhttp://anond.hatelabo.jp/20070617170733【3】は読みましたか?元増田を読むかぎり、読んでいないと思われます。
そもそも、【1】でのあなたの質問は、
「文章力のない電波が多数に諭されている状態」と「少数の為のテクストがネットイナゴに食いつかれて炎上している状態」との区別ってのは、なんのために必要な事なの?区別してどうするの?」
だったはずです。
この質問に答えるためにぼくは、【3】である騒動を取り上げて、同一の騒動においても視点のとりようによって「文章力のない電波が多数に諭されている状態」と「少数の為のテクストがネットイナゴに食いつかれて炎上している状態」の両局面が見出せることがあることを示しました。なんのためかといえば、わざわざ区別の難しい事例を取り上げて「区別することは大事ですよ」というメインの主張(読んで確かめてください)を述べるためです。
あなたは、
また、電波も、それを理解する小数の為のテクストである可能性が高いですし、もし、だれ一人として理解する者がいないとしても、そこに大きな違いはないと思います。極論すれば、自分自身の為のテクストである、という解釈もできます。つまり、私は「文章力のない電波が多数に諭されている状態」は、同時に「少数の為のテクストがネットイナゴに食いつかれて炎上している状態」とほぼ同様であると考えます。
と言います。
しかし、「文章力のない電波が多数に諭されている状態」と「少数の為のテクストがネットイナゴに食いつかれて炎上している状態」は全然同様ではありません。【3】の事例がそうじゃないかと言われるかもしれませんが、【3】は「区別が難しい事例」であって、「同様である」というのとはまったく違います。どんなにがんばって視点を設定したところでどちらか片方の状態しか見いだせない場合もあります。あなたは純然たる「電波」に直面して「これは少数の為のテクストである可能性が高い」などと考えるのですか。だれ一人として理解する者がいない場合にもですか。あなたは自分の書いている「電波」「ネットイナゴ」「少数のためのテクスト」などが現実のどんな事象に対応しているのかを考えていますか。
よそ様のところで悪さをする電波は更生させるか排除するしかありません。【2】の1に対してぼくはあえて「好ましい状況」と言いましたが、それは電波を諭す奇特な人などめったにいないからです。ぼくは某掲示板において、キチガイとしか言いようのない輩の書いたカオス・テクストに対して丁寧に添削を施している人々を目にしたことがありますが、ぼくが【2】の1でイメージしたのはそういう状況です(そもそも【2】の質問からして、何の条件というか文脈というかも明示されていないのだから勝手にイメージして答えるしかないじゃないですか)。そしてこの場合の「多数」は断じて「ネットイナゴ」なるものではありません。
要するに、いま見てきたようにあなたは「当該事象が「(略)」か「(略)」か」という区別をする意味をまったく考えようともせず、区別をする姿勢を放棄して、「そう言えなくもないかもね」レベルの形式的な側面のみを取り上げているにすぎません。しかし、そんなことをしていったい何になるというのですか。
正直に申し上げて、
そして、小数派、多数派どちらに入るかは、それを電波と見るか「小数の為のテクスト」と見るかの違いでしかないのでは?と考えるわけです。
この最後の一文にしても、あなたが結局のところ何を言いたいのか、ぼくにはさっぱりわかりません。
において、3,4に問題がなく、2を悪と考えるなら、多数派に付く必要性がわかりません。また、1が好ましい状況であるというのも疑問です。
電波を発信する事自体に問題がなければ、それを多数がとやかく言うのは数の暴力ではないでしょうか?諭す事が良い事だとしても、それを多数が同時に行なえば、相手にとってはネットイナゴによる荒しでしかないだろうし、まして、それに加わる理由がないと思います。
また、電波も、それを理解する小数の為のテクストである可能性が高いですし、もし、だれ一人として理解する者がいないとしても、そこに大きな違いはないと思います。極論すれば、自分自身の為のテクストである、という解釈もできます。つまり、私は「文章力のない電波が多数に諭されている状態」は、同時に「少数の為のテクストがネットイナゴに食いつかれて炎上している状態」とほぼ同様であると考えます。
私が書いた、
というのは、今思えば間違いで、正しくは
ですね。
そして、小数派、多数派どちらに入るかは、それを電波と見るか「小数の為のテクスト」と見るかの違いでしかないのでは?と考えるわけです。
例えば、池田氏が、
「紙媒体でもなんでもそうだが、筆者にとってはありがたい読者とありがたくない読者がいて、有益な情報を提供してくれたり、筆者が思わぬ視点から意見を述べてくれたり、あるいは単に励ましてくれるような読者というのはありがたい。逆にどんな内容のものを書いても、揚げ足取りとか、単に内容が気に食わないという理由で筆者攻撃を行う読者というのはいて、そういう読者に出会うと、へこんでしまう。しかしそんなことを言っていると、何も書けなくなってしまうので、前者のような読者に届けと思って物を書き、なるべく後者のことを考えないようにするのが物書きというものである。とは言うものの、はてなブックマークなど見てみると、批判ですらない罵倒のコメントやタグが並んでいることがあり、正直ぐったりへこむ。しんどい。おそらく“見ない、気にしない”が正解なのだろうが、システム的にもそういうものをフィルタリングできるようにすれば、より多くの人がブログを書き始めたり、書き続けるモチベーションを持つことができると思うのだがどうだろうか」
ってな感じで問題提起をすれば、ここまで揉め事になることはなかっただろう。
いや、腰を低くしろっていう話じゃなくてね。
別にネット上のコンテンツに限らずさまざまなコンテンツにおいて、人々、というかわれわれは普通にタグ付けやコメント記入をしているわけで、ひどいゲームのことを糞ゲーといってみたり、どうしようもないスポーツ選手や、政治家やらに向かって新聞読んだりテレビ見たりしながらぶつぶつ言うのは、まあ人の常だろう。はてブはそれを可視化しただけであって、はてブのせいでそれが発生したわけじゃないような気がするんだよなあ。
池田氏の一連のエントリとか、あるいは小倉氏の次の発言とか見ると
匿名の陰に隠れてだらだらと人の悪口を述べるのに便利な各種サービスに漬かっている
http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/2007/06/post_7777.html
どうもその辺の認識にずれがあって話がこじれているように見えるのよ。「大衆はもともと、いろんなものに文句をつけてる」っていうのは大前提だと思うんだけどなあ。
それぞれに善悪はあるでしょうか?
とのことですが、
ぼくが考える悪な状況は2だけです。
1は、文章力のない電波をみんなで更生させようとしている好ましい状況だと思います。たぶん無駄な努力でしょうが(そしてそれが電波の電波たるゆえんでしょうが)。
3は、自分のサイトで電波なことを書き連ねているだけなら(これも立派に「多数に発信」する行為です)別にかまわないと思います。
4は、全く問題ないでしょう。
2ですが、たとえばぼくが仲間内での使用のためにつくった掲示板にどこからともなくネットイナゴなるものが大量に飛来してきたらたまりません。かなり悪だと思います。
それから、二者間の罵倒しあいに物を申す無関係な第三者問題ですが、これは、完全に無関係な(つまり、当事者でないことはもちろん、罵倒がリアルタイムに起こっている米欄なり何なりに居合わせていない)第三者は、当然ながら、何も語るべきではないと考えます。
したがって、ぼくはさきの記事でMarcoさんをめぐる騒動を引用し、「傍観者であるぼくは盲目的に多数派に回ってしまうことによって「第三者の暴力」というものに加担することの怖さを考えたりしました」と書きましたが、これは文字通りの意味でしかないのであって、この騒動でどちらの立場に立つとか、善だ悪だといった積極的な主張は何もしていないわけです。
この話題が出るなんて。なんだか自己言及的で面白い。
お聞きしたいのですが、
それぞれに善悪はあるでしょうか?
私は、3は悪、1,2は場合によるがおおよそ悪、4は善悪に直接影響を与えない、と考えます。
まず、「電波」は多数に発信されるべき情報ではないという前提があります。
次に、多数が通常の何倍ものコメントを行なうのは荒し的行為であり悪です。
しかし、そのコメントが「電波の発信を止めるため」であれば、幾らかは正当化されます。
結果、その「電波度合」と発信しているブログの影響力に対し、コメントの質と量が許容範囲か否かが、1,2の「場合による」とする理由で、「おおよそ悪」とするのは「イナゴ」という言葉が使われるのは、おおよそコメントの質や量が許容限度を越えている場合だからです。
そして、「少数の為のテクストが多数に発信されている状態」は、大概において「少数の為のテクスト」が多数にとっては電波でなく、単なる意味の無い、興味を引かない文でしかないため、それが善悪に及ぼす影響は少ないが、時に「少数の為のテクスト」が多数にとって電波となり、この場合は多数にとって4は3と同等となります。
Marco11さんは、相手の為のテクストとして罵倒を用いたかも知れませんが、それを多くの人の目につく所で繰返し行ないました。罵倒は本来、公共の場、多くの人の前で使用すべき言葉ではありません。ただ、多少の事はコミュニケーション手段の一つとして認められています。しかし、Marco11さんは使いすぎている、限度を越えているのではないか、という疑問を多数が感じており、それがkanoseさんの記事により表出したのだと思いました。
罵倒は2者間で使われる分にはその2者間の問題ですが、それが他人に聞こえた時点で罵倒を発した者と聞いた者の関係も発生します。両者が違い為に聞こえたなら、多少の事は目をつむるでしょうが、あまりに多数に聞こえている様ならば、「罵倒を聞いた者」として「発した者」に意見するでしょうし、それは無関係な人の暴力ではないと思います。
[追記]
なんと間の良い事で。念の為に言っておきますが、私が書いたエントリではないですよ。
「少数の為のテクスト」って多数にとっては電波でしかないんじゃないの?
ある文章がどちらに入るかは、自分が小数派・多数派どちらに入るかでしかないんじゃないの?
ネット上がテクストの筆者と少数派と多数派に明確に三分割できるのであれば、どっちもそのとおりです。
しかし、ネット上には少数派にも多数派にも属していない第四の傍観者が存在します。
たとえば彼らが多数派か少数派のどちらかに与しようとする場合に、「文章力のない電波が多数に諭されている状態」と「少数の為のテクストがネットイナゴに食いつかれて炎上している状態」の区別はその判断材料となるわけです。
別に、どっちにも与しないし、そもそもネットに興味ないし、ってんならそれでいいですが、ネット上でなくてもそういう区別に基づいた判断を迫られるケースはいくらでもあるとは思います。
以下はぼくがたまたま見たネット上の騒動ですが、そういうこと考えるいい例になるかと思います。暇があったら読んでくらはい。
ぼくが最初に見た記事はこれです。
ARTIFACT@ハテナ系 - 罵倒を芸風とかキャラクターだとして容認する場こそが問題
どうやらid:Marco11という人が色々なところで罵倒を繰り返しているのを見るに見かねたid:kanoseという人が、「問題は罵倒そのものではなく罵倒を許容する場である」と言っているようです。
これが発端となり、Marco11さんは袋叩きのような状態になります(面倒なのでここではフォローしません。ブクマコメやトラバやリンクなどを参照のこと)。
これはkanoseさんたちの多数派からすれば「電波を多数が諭している状態」と言えます。――【1】
しかし、そんななかでぼくが一理あると思ったのが、Marco11さん自身の応答と、id:yuki_19762さんによるブクマコメです。引用します。
知的好奇心解放 - マ儿コの日記 - 芸風とかキャラクターとして認めてくれなんて頼んだ覚えはない
あと、罵倒とかようするに誰かに対する礼儀の問題でしょ?
それは当事者間の問題でしょ。第三者が口を挟む問題ではない。俺は友達のことを尊敬の念を込めて「キティガイ」と言うことがあるけど、当人が嬉しそうなら何の問題もない。そこにカノセくんがでてきて、しかも全然関係ない俺の知人に「どう思う?」なんて尋ねるのはどうかと思う。それは罵倒された被害者の感情に配慮した行動じゃなくて、あなたのモラル、倫理観の表明だよね。表明というか突付けだよね。
(中略)
ひとつ効きたいのは、カノセくんは、どういう立場の人間として、関係のない俺と人との対話での言葉遣いについて意見しているの?村長として?w
はてなブックマーク - ARTIFACT@ハテナ系 - 罵倒を芸風とかキャラクターだとして容認する場こそが問題
[暴力]他人の問題に無遠慮に無神経に首突っ込むのも立派な暴力だと思いますけどね。無責任で無礼で悪質な暴力。罵倒なら対相手で話しが済むのに、罵倒とその容認?を問題視する人間が他の暴力は容認ですか。
こうなると、これはMarco11さんからすれば、「少数の為のテクストがネットイナゴに食いつかれて炎上している状態」と言えます。――【2】
傍観者であるぼくは盲目的に多数派に回ってしまうことによって「第三者の暴力」というものに加担することの怖さを考えたりしました。そうならないためにも、【1】と【2】の区別は大事だなーと思っているしだいです。
横からなんだけど、どうにもわからないので聞いてみたい。
「文章力のない電波が多数に諭されている状態」と「少数の為のテクストがネットイナゴに食いつかれて炎上している状態」との区別
ってのは、なんのために必要な事なの?区別してどうするの?
「少数の為のテクスト」って多数にとっては電波でしかないんじゃないの?
ある文章がどちらに入るかは、自分が小数派・多数派どちらに入るかでしかないんじゃないの?
ねえ増田なんて聞くと、デフォルトのテンションが妙に低い増田さんは圧倒されちゃう。でも、そんな時、「で、結論は?」なんて聞いちゃいけないよ。目的はコミュニケーションなんだから。台詞当てゲームをした姉ちゃんなんてもう、テンション高くて萌えちゃうよ。
テンションと言えば歩道にて、お茶目な女子高生に遭遇した13歳の増田さん。って、増田は13歳が来る所じゃないよ。なんて話はおいといて、なんで道に広がって歩くかっていうと、と考察を始める増田さんたちによれば、話がはずんでテンション高くなっちゃったのかな。とりあえず、事故が無いように頼む。そうそう、トラバで紐づけてみた増田さんありがとう。
はてブ注目はネット上での宣伝のやり方、そして、ネットイナゴ解決策。こういう、場を良くするための方法ってのはこれからのテーマじゃないのかな。人文情報系の出番だと思うよ。そうそう、場といえば重要なのは社会と言う場。その方向性が見えるときまで生きていたいと言うのはロボット工学程度にしておいて、増田さんも関与もしていこう。
ネットイナゴってネット上での書き込み行動がイナゴみたいな奴らってことですよね。
こう呼ばれる人たちはイナゴの群れ方や習性に似ていると言われていると同時に人間扱いされてない感じ(蔑まれている感じ)もします。
なるほど……やっと自分が誤解していたことに気がつきました。
元増田は、ぼくの書いたことが後者を前者と同一視してしまう主張に見えたわけですね。なんとも危ない奴に見えたことでしょう(笑)
元増田は誤解の原因をそちらの表現のマズさと言っているけれども、↑の引用のような、この手の議論をするうえで当然共有しているべき実際的な問題意識に、ぼく自身が乏しかったせいもあるように思います。
まあなんにせよ、
「文章力のない電波が多数に諭されている状態」と「少数の為のテクストがネットイナゴに食いつかれて炎上している状態」との区別ってホント難しいなあ、と。
これにほんとにそうだよなーとうなずきつつ、昼飯に行ってきます。
こちらこそ、ややこしい話に付き合ってくれてありがとう。
20070617064124の言ってること、おおむね了解。で、こちらも同じように、言い方がマズくて誤解させちゃったなあ(それは全くこちらの責任で)と感じたので付記。
増田は先の書き込みで『テクストの本来的な価値や可能性(B)』という言葉を使ったけど、これはそちらの
文章というのは結局のところ読者がどう理解するかであり、筆者の「つもり」など(つまり筆者にとって読者の理解が勘違いかどうかは)原則的にどうでもいい
それが筆者の狙い通りの読者層から狙い通りの理解を得られたとしても、誰ひとり理解できない代物であったとしても、どちらの場合もそのテクストの価値を決めているのは「読者」です。
という話に対する否定として使ったつもりではなかったことを言っておきます。増田が先に書いた話の要点はつまり
ちがうよ!ぜんぜんちがうよ!
という話に過ぎず、テクストの「価値」が「XからYに向かってテクストが投げかけられるその行為」の中にしか存在しない、という話に対して異を唱えるつもりなどまったくない、ということです。だから、もし「多数」という言葉さえなければ……つまり『A:多数の読者の読みが収束する地点』でなく単に『C:読者の読み』という意味で書かれる限り、増田には全く反論する意図が無い――つまり問題は「多数」という言葉のニュアンスだけだったなあ、と今さらながら思ったことを申し添えておきます。
ここであらためてツリーの一番最初増田に戻れば(一番最初増田は既に消え去って忘れているかもしれないだろうなあ、と思いつつ)「文章力のない電波が多数に諭されている状態」と「少数の為のテクストがネットイナゴに食いつかれて炎上している状態」との区別ってホント難しいなあ、と。一番最初増田が言いたかったのは多分後者で、そちらの言いたかったことは前者だとすれば、両者の区別の微妙さがそもそもこの話のややこしいとこではなかったか、と思うわけです。
…というわけで、横から飛び入り増田にていねいなレスをありがとうございました。
そして正直増田でこれほど噛み合った話ができたことに驚いた。