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2012-02-07

今更になって『あの花』をクリティークしてみる

 俺はあんまりあの花』好きじゃない

 ラストシーンが期待通りのものじゃなかったっていうのが大きいね。期待外れと言うか、それまでの文脈にそぐわないラストというか


 しかしそれでも俺は『あの花』に対してある種の好意を抱いてもいる

 というのも、『あの花』という作品がある特定の人々を傷つけるようなシロモノであるからだ。

「傷つける」ということは一体どういうことなのか? ということはこの場では一旦後述に回すとして、まず、『ある特定の人々』が一体何を指すのか、について言及することにする。


『ある特定の人々』。それは誰か?

 スタッフ


 特に、中心的なスタッフであればあるほど、あの作品によって多かれ少なかれダメージを受けているに違いないと私は思っている

 何故なら、あの作品がいわゆる商業ジュブナイル作品であるのが一つ。そして、もう一つはあの作品が失敗作だから

 あの作品は商品であると同時に、ある種の内的な息遣いというか、核となる生命力のようなものを欠いた作品だから


 あの作品において核となる生命力が欠如していることは、そもそもの作品のコンセプトを省みれば一目瞭然である

 というのも、あの作品のコンセプトが如何なるものかと言えば、

“何か特別な力を持っていない虚しい人間でも(まあ霊視のことはさておき)、人生を肯定するに足る思い出なり価値なりを享受できる”

ということに尽きるのである

 つまり、『あの花』はその基底となるコンセプトから言っても、中心的な何かを欠いた、ある種の虚しさを湛えた作品であるといって差障り無いのだ。

 ただ、ドラマツルギーとは往々にしてそういうものだ。それ単体ではさしたる価値を持たない物事の羅列が、ある種の偶然によって価値を持つようになるのは、ドラマツルギーの特徴だ。

 私は別に、そのようなドラマツルギー全般のことを空虚なシロモノだと言って否定しているわけではない。


 しかし、あのスタッフたちは、特にその中核的なスタッフたちは、あの作品によって生み出されたドラマに、どれほどの価値を感じているだろうか?

 恐らく大した価値を感じてはいるまい。私はそう思う。

あの花』とは、その程度の作品だ。


 しかし、私はそれ故に、その不甲斐ない出来の故に、『あの花』にある種の魅力が芽生えるのを感じるのだ。

 それは、あの作品が製作者たちのジュブナイルを、多少なりに切り売りした形で生み出された作品だからである

 そして、そのように思い出を切り売りしてまで作った作品に、あの程度のドラマしか付与できなかったということが、恐らくは中核的なスタッフの心をえぐり、ダメージを与えているかである

 ジュブナイル――つまりは彼らの思い出そのもの――というものを、はした金の為に切り売りして、そして結局あの程度のドラマしか作れなかったという事実は、恐らくスタッフの中の数人の、ナイーブで温かく息づいていた部分を傷つけたことだろう。


 そしてそのような失敗作としてのダイナミズムを持っているからこそ、私は『あの花』に対して好意を抱いているのである

 スタッフの方々、貴方達の後悔はすぐに貴方達本人によってさえ忘れられてしまうだろうが、しかしそのひとときの味わいが甘美であることには、間違いあるまい。

2012-01-15

ニヒリズムについて

能動ニヒリズムとは、一切の事物に意味価値は無いと了解して尚、今の生を無垢なままに生きようとするものだ。

永遠回帰する運命を愛し、生のダイナミズムを肯定する立場だ。

しかし、それは絶望から目を背けた欺瞞的な態度のように私は思える。

黙って絶望を受け入れられる者こそニヒリズム標榜出来るのではないだろうか。

2010-10-19

努力の過程を評価して!』という甘えた商法いつまでも通用しない。

日本酒の消費量が10年間で4割減らしい。

その理由としては、いろいろ考えられるが、

・悪酔いしやすい

チューハイカクテルのようなブレンド酒の提案ができなかった

・洋風の濃い味付けの料理に合う酒を提案できなかった

ダサい、親父臭い(ワインのようにオシャレでない)

・「会社上司から説教とともに半強制的に飲まされる酒」だったが、

 職場環境の変化で、「上司日本酒を部下に強制できなくなった」

 (下手すればパワハラと言われる)

・量が多い(一升瓶なと消費しきれない)

などがある。

これに対して、日本酒関係者からは

「創業数百年の●●という蔵元がなくなるのはさみしいことだ・・・」的な

感傷コメントがあったりする。

「あの蔵元手作りで、原料にこだわって・・・」というように。  

http://www.tokusetsu-news.com/entry.php/901

しかし、「生産者がいかに努力して」ようが、

「いかに数百年前から製造している無形文化財」だろうが、

「今の消費者が美味しいと思わなければ、なんの価値もない」のである。

どうも生産者側、というより日本酒マニアの中には

手作りだから、苦労しているから、その分の価値消費者側が評価してくれるのが当然」と

いうような思い込みが強いのではないか?

消費者の立場から見れば、手作りだろうが、大量機械生産だろうが、

「美味しくてかつ安ければそれでいい」のである。

言ってみれば「結果が全て」。

なのに、「過程を評価してくれない」と泣き言を垂れているのが、今の日本酒業界じゃないか?

これを裏返せば「過程が無努力だと、結果が良くても評価しちゃイカン」という論理になってしまい、

以前はてな匿名ダイアリーであった「仕事マクロを組んで結果を出したら先輩に怒られた」という論理になる。

さらに言えば、近年農水省文科省提唱している「食育」「スローフード」なんかも

「結果なんかより過程を評価しろ!」という考え方である。

スローフードにすることで、有意な栄養学的メリットがあるのか?

そうでなければ、「結果に関係なく、過程だけ評価して!という

日本酒業界と同じメンタリティということになる。

※まあ、今の地方自身、結果を生み出すことが出来ず、 

 「過程に四苦八苦していることを見せ付けて、都会の同情を集める」

 ことでしか生きる術がないからなあ・・・

 日本酒蔵元地方経済文化の拠り所だったりするし。

余談だが、先日立ち読みした週刊ポストで「芦屋文化特集」というのがあって、

阪神間の酒造メーカー当主が芦屋文化に多大な影響を与えている、と書かれていた。

となると、需要4割減という日本酒への逆風の流れは、酒造メーカー当主、

芦屋文化にもボディブローのように響いてくるのでは?

所詮、阪神間といえども、

蔵元にある程度経済文化を依拠せざるを得ない程度の地方都市」だったのか。

伝統企業に混じって新興企業が勃興して、世界に進出している京都と比べると、

阪神間では企業勃興のダイナミズムが薄れていて、「先代の遺産食い潰し」という芦屋文化になる・・・

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