人は誰しもダブルスタンダードを使い分けて都合よく生きている。というより、現実は数学と違って「どちらとも言えない」ものが沢山あるため、そうせざるを得ない場面がある。
例えば「人間は殺してはいけないが、動物は殺しても良い」というのはある意味ダブルスタンダードなのだろう。キメラのような中間の存在は今のところ発見されていないが、仮に発見されたとすれば、それを人間とするか動物とするかで議論は別れるだろう。人間のように思考し、言葉を発するゴキブリがいたら、あなたはそれを殺せるだろうか?
saebou氏に対する誹謗中傷で呉座勇一氏が批判されることについて、「批判されて当然だろう」という気持ちと、薄らとした違和感が、私の中に同時にある。
もしもこれが、会社の同僚に対する誹謗中傷という話であれば、多くの人は「批判されて当然だろう」と言うだろう。私も全く同じ気持ちである。
一方で、これが例えば百田直樹氏のようなメディアにも出演する言論人と、特に名もない一般人であれば、あの程度の「批難」を「誹謗中傷」として扱うのは、政治的言論の自由を著しく脅かすことになるのではないかと思う。これもまた多くの人が同じように感じるだろう。
では、saebou氏と呉座勇一氏の場合、どちらにあてはまるのだろうか?
彼らは会社の同僚などではない。しかし、研究者界隈というのは狭いもので、彼ら程度の分野の隔たりであれば、「同僚」と呼べる関係にそこそこ近いというのも事実だろう。
saebou氏はメディアにも出演する言論人である。しかし、それを言うなら呉座勇一氏も同様だろう。ただし全く同等とも言えず、saebou氏の方が「活動家」としての顔を若干広めに持ち合わせているだろう。
「どちらでもある」し、「どちらでもない」というのが、本件の実態ではないだろうか。少なくとも、どちらか一方に断定するためには、慎重で繊細な議論が必要になるだろう。
人は誰しもダブルスタンダードを使い分けて都合よく生きている。それはもう人間が生まれた時から抱える原罪だと思う。白黒つけられない灰色を、白だ黒だと振り分けることを、(政治的)イデオロギーと呼ぶのだろう。それ自体は何も悪くない。必要なのは、それぞれが自身の政治的偏りを自覚し、互いに歩み寄ることでは無いだろうか?