このときのかわいいは、本能として子供を守るようにプログラムされていることの作用だと思う。
子供のように小さいもの、子供の顔のように目が大きくてとかいう顔立ちのバランスのものを見ると、
子供を守るのだ、という本能の司令から、それをかわいい→尊いもの→守らなければいけないものとして認識する。
このかわいいということの区別のついてなさは、言葉による区別がついていないということもあるし、
人間の頭の中の感情としての回路を利用するときに、脳が「性的にかわいい」と「子供としてかわいい」を併用して使っている混乱によるのだろう。
苦い思い出、などと形容される表現があるが、そういった苦い思い出を思い出す時、人の脳は実際に苦味を感じる部分が活性化しているという研究結果がある。
このように脳は併用する。記憶の中の思い出と、味覚としての苦味は別のものなので別回路を構築しなければならないはずなのに、
脳は手を抜いて併用して同じ回路を使う。
この区別をするためには、対象を女性としてみているのか子供としてみているのか、という切り分けが必要になる。
つまり女性としてみている対象がかわいいと感じればそれは性的なもので、
女性としてみていない対象に対するかわいいは性的なものではないといえる。
しかし、このようにでも分けなければ論理的区別はつきにくいと思う。
しかし、論理的ではなく感覚的に、ということであれば個人の感情として区別はつく。
一方、幼稚園児に対するかわいいは子供を保護しなければならないという動物的本能由来の子供に対するかわいいだ。
この感じ方は本当に、個人の心の中の感じ方なので、人それぞれだ。