この文章に結論は無い。ただ、地元ではコートを着る人が居ないというだけの気付きだ。
車が無いと暮らせない、スーパーはおろかコンビニにも到達できない地域で生きて居た。
親の葬儀関連の用事で行った、路電が廃線になって 50 分ほどバスを待つしかない時に気付いた。コートを着ている人がいない。言うて市内で、いや県内で一番大きい駅なのに、誰ひとりとして、コートを着ている人がいなかった。
理由は分かる。車を運転するのに、コートのような長い衣服は不便なのだ。分かるが、ひとりも居ないのだ。この地で車を持たずに暮らす人が。
地元に暮らし続けて、この先も暮らし続けたいと思っている友人が、大好きな地元では無く便利な場所に家を買いたいと言った理由が分かった。運転免許を返納した後に暮らせる場所というのは限られているのだ。
イオンのおかげで暮らせる範囲は増えた。でも撤退されたら不毛の地になる。だから市内で栄えている、撤退されても別のスーパーマーケットが来てくれそうな場所に移るしかない。ネットスーパー? 田舎でそれをやっているのは善意と恐怖心に基づく。いずれ無くなるものだ。
あの景色の中で生きたかった。職種上、栄えた地に移るしかなかったのは、むしろ幸運だったのかもしれない。
ずっと居たかった場所を離れるのは辛い。でもそこで生きるには、自動車は不可欠で、年寄りから車を取り上げられたら、自尊心も生活も失うのだ。だってどこにも行けない。何もできない。
技術者の末端として、自動運転には期待している。でも技術者の末端として、通る人が少ない道の学習が難しいことも分かる。そしてそういう道が複雑なコミュニケーションによって成り立っていることも。
この文章に結論は無い。ただ、地元ではコートを着る人が居ないというだけの気付きだ。
何ができるだろう、自分はどうしたいんだろう、数々の技術の蓄積の末に自動車が生まれ、人々に自由を与え、そして人々から自由を奪った事実について、私は何をしたいのだろう。