2020-12-07

なぜ「お前が避ければいいだけ」は成立しないか

ぶつかり人間話題が盛り上がっているが、

こういうときに必ず出てくるのが「お前が避ければいいだけ」「ぶつかっているということはお前も避けていない」

というしょうもない混ぜっ返しだ。

「お前が避ければいい」論者は「ぶつかった・ぶつからなかった」という結果論の話にしか興味がないが、まるで幼児である

人混みを避けて歩くことは「コミュニケーション」の一種である

人混みは社会である

社会コミュニケーションによって成り立つ。

人混みは「お互いに」避ける、ぶつからないというコミュニケーションでできている。

自分から避けない奴には理解できないのだろうが、「お互いに避ける」不断努力なしには平和な人混みは生まれないのだ。

考えればわかることだが、誰も避けなければ皆ぶつかるのだ。

コミュニケーションの反対はコミュニケーション拒否、つまりは「暴力」なのである

人混みで「避けない」人間積極的に「暴力をふるっている」のだ。

「避けないだけで暴力」は大袈裟だと思うだろうか。

世の中には高齢だったり障害だったりベビーカーを押していたりで「避けられない」人はがいる。

それを察してこちらが全面的に「避ける」こともコミュニケーションである

数々の証言が示すように、「避けない人間」は相手高齢者だろうが障害者だろうが、構わず避けないのだ。

避けないで、ぶつかるのだ。

暴力をふるっている」ということの意味を多少なりとも理解していただけただろうか。

暴力に対し反対を表明するなんて、当然すぎる事だろう。

「人混みにおける暴力」なんて、これはもう現代社会人なら反対して当然の低俗行為である

すでに「相手暴力を振るってきている」状態なのだ

それをどうすべきかという話なのだ

「お前が避ければいいだけ」論が無意味なのはここに理由がある。

少なくとも「お前が避ければいいだけ」論者は暴力肯定している自覚は持っていただきたいものである

はっきり言って、暴力を振るってくる相手へのコストを善人に押し付ける最低のアホである

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