私は現在某ソシャゲをプレイしている。そのゲームではとにかく登場キャラが多く、(カップリング的な意味ではなく)いろんな組み合わせを楽しむことができる。この点がこのゲームの良さだと思うし、私も楽しませてもらっている。
しかしキャラや組み合わせが多いと、やはり苦手というかあまり好きではないものも当然出てくる。そうなった時、本来なら苦手なら苦手で良いのだが、私の場合どうしても自分を責めてしまう。「この子はこんなに良い子なのにどうして好きになれないんだ」「この組み合わせに罪はないのになぜ、」という思考になってしまう。そうすると、ありもしない罪の意識に苛まれ、その子たちを見るたびに責められているように感じてしまう。そして冒頭にあるように「私にはこのジャンルを応援する資格がない」といった結論に至ってしまうのだ。
苦手な子がいても当然だし、他の人がそう思っていても私は何も思わず「ふ〜ん、そうなんだ」で終わる。しかし自分に対してはどうしてもその考えに至れない、というか自分が許せなくなってしまう。これが非常に苦しい。苦しいが自分以外に解決できる人はいないし、友人やフォロワーにも言いづらかったりする。なぜなら自分だけに適応する趣味のあり方に対する勝手なルール付けを行って、自分で苦しんでるという非常に愚かな構図になっているからだ。
プレイしているソシャゲは音ゲーで、キャラのカードを重ねたりもする。しかし愚かな私はまた勝手に「楽しめないルール」を作り、「最大枚数まで重ねられなければキャラがかわいそう」「うまく音ゲープレイしてあげなければキャラがかわいそう」「これではプレイヤー失格だ」と書いてて思うけど、まるで意味のない縛りプレイをして、本来楽しいはずのものを楽しくない義務感・使命感のようなものでプレイしてしまっている。ゲームをプレイするのに資格もなければ、それが剥奪されることはないというのは重々理解しているが頭がそれに対応できない。こんな苦しいプレイ方法したくないし、この考えを捨てれば即解放されるのもわかっている。わかってはいるがなぜだかどうしても捨てられない。うじうじして馬鹿みたいな悩みなのは自分でもわかってるけど、どうしても「全てを愛せない自分」が許せない。もういっそ離れてしまば良いとも思うけど、推しが好きで、応援したくてみっともなく縋り付いている。
嫌いって切り捨てられる側の気持ちに寄り添ってしまうんだろうな