で政治参加への自由を解いた芸人がいます。その通りだと思う。私も勉強してないから参加するのは辞めるべきという意見は受け入れる必要ないと思う。
気になるのは「叩かれて萎縮してしまうと勿体ないから叩くのは良くない」という視点(正確にはだりぃ視点)。しかしこれは自身の発言の自由を訴えながら、”叩く”と一括りにした人間の自由を排除する完全なダブルスタンダードだと気づかれていない。あるいは、あの芸人の言葉を借りて元アイドルの自由を否定する。(当の芸人はアイドルと対照的な事を言ったが否定していない)。自由をもって自由を取り締まる自由警察になっているが、その矛盾に気づいていない人が多すぎる。
政治への参加、発言、否定は無知に関わらず自由に行われるべきだが、その自由を否定することもまた自由なのだ。そこを間違ってはならない。
では自由を訴える人が持つべき視点とは何か。それは「”叩かれ”てもブレない芯を持つこと」。今回の#検察庁法改正案に抗議しますを例にあげるなら、「国民への利益が説明されていないから理解してないけど反対」や「相関図が出回っているがこれは本当か、あるいはこういったことが起こせる改正なのか十分な説明を求めるため可決に反対」などであれば、無知を攻められてもブレる事はない(知らないならだまってろと言われても、その論理性の無さは簡単に論破できる)。自分の発言が何に帰属したものかをハッキリさせ、その前提は動かないものであればあるほどブレない。発言を相関図に帰属させた歌手は、その前提に疑義を持たれブレてしまったことが過ちだった。
糸冬
ネット炎上の狭い世界で論を終えてるのが残念 最大の「自由警察」はアメリカ合衆国でしょうに その功罪の罪の部分はいくらでも述べられるよね