2018-10-18

FSS京都漬け物

 永野護ファイブスターストーリーズ」を読み返すたびに、思い出す話がある。

 私の父は満州からの引き揚げ者で、戦後這々の体で京都一乗寺下り松にあった親戚の家に身を寄せた。艱難辛苦の末やっと帰国した父がみたのは……

「その時な、となりの漬け物屋のおやじ坊主でもないのに法衣着て漬け物売っとるんだよ。もう力が抜けるなんてもんじゃなかったわ。こっちゃ、やっとこさ帰ってきてやれやれと思ってるところで出会ったのが、おやじが偉そうにとうとうと講釈して漬け物売ってる姿だものな。あー、京都やー、と思うたわ」

 FSSには、この法衣着て偉そうな講釈と共に漬け物を売る漬け物屋と重なるところがある。すごそうに見えるし偉そうにみえる。しかし、よくよく観ていくとFSS世界は、この我々が生きる世界存在するものを分解して組立直したものが分かる。つまり当たり前に存在するものだ。

 作者の手つきは卵の殻を割って彩色し、画用紙に貼っていくモザイクと似ている。現実存在するファッション流行伝統サンプリングし、違う手つきで違うように組み上げる。手法のものは、オリジナリティを生む母胎となるものだ。が、年表からまりトイズプレス出版した設定書に至るまで解説を繰り返す姿には、「坊主でもないのに法衣を着てとうとうと講釈をする漬け物おやじ」が重なる。根底にあるのは「すごいだろ、ありがたいものだろ、ひれ伏せ」と繰り返し説くことで、漬け物をあたかも今すぐ買わねばならない価値のあるものと見せる姿勢だ(ヤクト・ミラージュなんか、出現までさんざんじらされたものだ)。

 漬け物漬け物として売ればいいものを、法衣と講釈で誇大な印象を作り上げて売る——それを父は「京都だ」と感じたのだが、気が付けば著者は京都出身ではないか。なるほど、FSSとは京都商売手法の展開か、と私は納得している。

 京都という土地テクスチュアと付き合うには、それなりのやりかたがある。付かず離れず、普段は横目で眺め、なにかあったとき(つまりは、新しい巻の発売だ)には、拍手を送っておけば良い。

 20代で連載開始に立ち会い、気が付けば自分も50代となった。十分楽しませて貰ったと思っている。

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