文藝春秋オンラインで、「昔の体育のサッカーの授業で理不尽な思いをさせられて以来、サッカーには嫌い。W杯中サッカー一色で、興味を持てないと居心地が悪い。サッカーが嫌いな人間もいることを忘れないで欲しい。早くW杯終わらないかな」(乱暴な要約)という記事があった。
よくわかる。自分も球技全般得意じゃなかった。ただ周りがそんなにひどい人たちじゃなかったので、スポーツは好きなままで今回のW杯も楽しんでるけど、筆者と同じ状況だったら嫌いになっていただろう。
で、ふと思ったけど、逆の状況ってないよね。
例えばノーベル文学賞。ここ数年は村上春樹が受賞するかしないかでマスコミは賑わう(今年はないらしいけどね)
で、そのとき「昔国語の授業でたらちねをたれちちと答えてしまい、そこから熟女好きということになり、いじられ続けた。しばらく経っても国語の授業であてられたらどこからかクスクス笑いが聞こえてきた。だから国語、ひいては文学作品は嫌い。文学賞が日本人になるかならないかなんてどうでもいいし、村上春樹の作品がわれわれ日本人を代表してるのかもわからないし」という記事が出たとして、はたして共感を呼ぶのだろうか。
間違いなく呼ばない。
なぜだかスポーツは先天的なものがすべてで、できなくても仕方ないし、できたところで「所詮」「たかが」となる。
しかし勉強は、努力でカバーできるし、できないのはその人の努力が足りないということになる。どんな分野であれ、できたら「すごい」と言われる可能性はスポーツよりは高いだろう。
そしてさらに、年を重ねるごとにスポーツより勉強の方が重要視されていく。
しかし勉強もスポーツと同じかそれ以上に先天的なものが大きいと思う。
だから、今W杯にかこつけてウェーイとなってる人々は昔勉強よりは、スポーツの方が得意だった人々が、その栄光を思い出して少しの間だけ気晴らしをしたいだけなんだと思う。
そしてさらにいえば勉強もスポーツもできなかった人間はずっと息を潜めながら過ごすことになる。「多様性」とはいうけれど、すべての人々に全くの違和感を感じさせない社会、というのはどだい無理なんじゃないかと思う次第。
あと、ここまで書いて思い出したけど、この内容は奥田英朗の昔のスポーツエッセイの影響を受けている。どれだったのか思い出せないので誰か教えていただけたら幸いです。
「違和感を感じさせない社会」なんて求めてないし、「違和感を感じたらそれを表現してもいい社会」であればいい。