2017-10-16

チューリングテストではカバーしきれない知能

チューリングは人を騙せる機械を知能と呼ぼうと定義したけれど、私はその考え方に疑問がある。

なぜならば”騙すのか騙せられないのか”という小さな区切りけが人間の力の及ぶ範囲ではないからだ。

音楽や絵、または文学芸能お笑いというように知能とは直接関係ないものこそが人間らしさを発揮しているように見えるからだ。

もちろん上記のような芸術機械が作るまたは模倣することは不可能ではないと思う。それは私が機械学習を専門とする学生から不可能と言いたくないことも関係している。

機械が作った芸術かそれとも人間が作った芸術なのかという2択の問題レベルを落とすとチューリングの問に定式化することはできる。

からといってその2択に問を定式化して大事な何か(言葉では定義できないファジィなそれ)を削ぎ落とすことによって知能を定義することはできないと思う。

それには答えは無いかもしれないが、愛というのも重要な要素である。例えば人間愛する人を騙したり、愛する人に騙されることがある。

では騙すことが知能と言い切ってしまうと、人間人間に対して騙されたり騙されなかったりしたときに、「あなたが私を騙せなかったのであなたには知能がない」というようなおかしなことになってしまう。

それは私が騙すという要素に愛を追加したからだが、愛を持った行いに知能がどうとか知能がないとかそういうのは別の次元の話である

このように2択の質問では愛という要素を追加しただけでチューリングの問は崩壊してしまうのだ。

そこで新たな定義必要になる。愛がある嘘か愛がない嘘なのか、愛がある真実なのか愛がない真実なのか、その4択の問をするというのはどうだろうか。

チューリングの部屋のような名前をつけて。でも、これでも疑問が残る。愛があるから知能とかそういうふうに定義してもまた別の要素を追加したくなるかもしれない。

知能を定義しようというのは生物進化を考えていない。生物進化すると知能も当然進化する。チューリングの部屋は無限時間進化考慮していない。どこまでいけば知能なのか結局は定義できないのではないだろうか...

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