「インドは大国だ」「ハゲには社会的強者もいる」「ハゲ弾圧の歴史はない」などと、同じ差別的表現でも社会的立場や歴史の経緯によって深刻さは異なるという考えらしい。文脈が重要だと。
これは分かる。例えば、フランスで「イスラム死ね」と言うのと、「カトリック死ね」と言うのが全く対称だとは思わない。弱者に向けられた憎悪は、強者に向けられたそれより、より生々しく当事者の心を圧迫するだろう。
だが、悪意のある発言そのものよりも、発言する人の属性によってヘイトスピーチを定義付けていると落とし穴に嵌りはしないか。
現実には強者だけが弱者を差別するのかというとそうではない。弱者同士の差別というのは存在する。弱者が「日本人であれ」「善き市民であれ」という視線に常に晒されることによって、それを内面化しより過激な差別主義者が誕生することがある。
これはとても厄介で、弱者が同じ立場の人間を糾弾する姿を見て、攻撃的な強者は「それ見たことか、お前がワガママなだけだ」と叩きを加速させるだろうし、無知で無関心な強者には「大した問題ではないんだ」と被差別者の訴えへの沈黙を正当化させる。
こういった場合に、くたびれはてこのような人がどういった回答を出すのか気になる。