2015-12-21

正論を言うひとびと

(以下は,仕事における議論ではなく,もっとプライベートな場面での会話を想定しながら読んでほしい)

友人に何人か,「私は正論を言う」と自称するひとがいる。なるほど彼らの意見は明確で,聞いていて快いときも多い。他人人生の悩みなどについて無遠慮までにずかずかと,しかしはっきりとものを言う姿には清清しさを感じる。けれど「私の言うことは正論だ,だからあなた意見は誤りだ」とまで言われると,ムムムと思う。

似た例で,「私は正論を言う。だからひとから反感を買う」と主張するひともいる。これについてもムムムと思う。この『だから』には自己弁護的な,あるいは自己陶酔にも似た響きを感じるからだ。確かに,図星を突かれると無条件に嫌な気分になるひとも多く,その場合は「正論を言ったことで反感を買う」ことは名誉の負傷でもある。けれど,そうでない例――例えば私は,むやみやたらと強い口調で"意見"を言われると,ストレスを感じる。喧嘩を売られている気分になるからだ。あるいは,自分は間違っていると思う"意見"を,『正論=正しい論』と押し付けられれば,ムッとする――もあろうし,この場合は「正論を言ったことで反感を買う」というより「意見交換に失敗した」なわけで,断然不名誉であろう。

といったことを「私は正論を言う」と自称するひとびとに訴えると,「ねっ?だから正論は嫌われるのよ」と言われてしまう。

そもそも正論というのは,自称するものではないと感じる。自分自分意見を「絶対的に正しい」と主張するのであれば,それは傲慢ではないのか。「私の意見は私にとっては正しい。もちろんあなたにとってはどうかは分からない。けれど一理はあると思うので,参考までに私の意見あなたに紹介したい。その後の評価あなたに委ねる」というスタンスであれば理解はできる。あるいは私が勘違いをしているだけで,正論を言うひとびとはそういうスタンスでいるのだろうか。それにしては,言い方が些か攻撃的だが。もしくはあるいは,正論を言うひとびとにとっては自分自身正論を口にすることのみが興味の対象であり,それに対して他人がどう思うかというのはどうでもいいものなのだろうか。


(追記)

ああでも,Wikiで調べたら正論とは「多数が流されている状況に対する正しい少数派的意見価値多様化に対する堅くて古い感じのする常識意見、というニュアンスの評としての用法」とのこと(例外もある)なので,「決して間違ってはいない少数派意見」を言えばそれは自ずと正論になるのか。

なんかずるくないか,そんなの。

  • 正論はオナニー。何の価値もないよね。自分一人の世界で生きてるんならいいと思うけどね。 正論をいうから反感を買うんじゃなくて、見せて欲しいわけでもないオナニーを見せびらか...

  • Wikipedia のことをWiki って略すと警察が来るよ(正論)

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