きっかけは些細なことで、高一の初め頃、産まれてからずっと一緒に暮らしていた祖父が末期癌の闘病の末亡くなり、
大きなショックを受けていたところ、当時付き合いだした彼氏からパンフレットを渡されたのがその宗教との出会いだった。
パンフレットには、間違った神を信仰すると仏罰が下る、というようなことが書いてあったように記憶している。
祖父が亡くなったショックで茫然自失としていた自分に、彼氏が差し出してきたひとつの優しさに、まだ世間知らずだった私はまんまと乗っかった。
彼氏はお寺に連れて行ってくれて、数珠を渡し、勤行の仕方を教えてくれた。
程なくしてその彼氏から振られた私は、大好きだった彼に会えるかもしれないとの気持ちからひとりでお寺に通うようになった。
朝高校に行く前に勤行をしに行き、それから学校へ行くこともあった。
お寺の中にも知り合いができ、そこにできた居場所のようなものが祖父を喪った悲しみを慰めてくれた。
彼氏にはこっぴどく振られたが、私は寺に通い続けた。
なすがままに、入信する同意書に判を押し、入信の儀を済ませてしまった。
親には寺に通っていることも入信したことも黙っていた。
私はこっぴどく叱られ、父親が私を連れて寺に怒鳴り込みに行った。
父は、今後うちの娘とは関わらないでくれ、と住職に言った。
それからのことはよく覚えていない。ただ、祖父を亡くしたショックを埋め合わせていた信仰を突然奪われて、
何にすがって生きていったらいいのかわからなくなったことは記憶している。
私は寺に通うことをやめた。
それから私は大学受験を経てカトリックの大学に進学し、宗教というものを違った視点から捉えられるようになった。
高校のときに信じていた宗教のように、その宗教以外邪教として排斥するような宗教では、
宗教同士の争いになるし、視野が狭くなるということを身を以て体感した。
それでも何もわからず信じていた高校生のときは、鳥居を潜るのも怖かったし(しなかった)、
毎朝毎晩の勤行を絶やすと自分の身に何か悪いことが起こるんじゃないかって恐怖心が身を蝕んでいた。
そんな私が縁あってカトリックの大学に入って、カトリックのクリスチャンの人たちと接する中で、
宗教というのは恐怖心や猜疑心を生むためのものではなく、自分の生をよりよくするためのものだということを身に染みて感じた。
カトリックの洗礼を受けようと思ったこともあったけど、その気持ちも長くは続かなかった。
また受けようと思うときがくるかもしれないけれど、そのときはそのときに考えようと思う。