なにかを作る人とそれを売る人がいる。と思って、現代は「売る人」のが多い。
大抵の労働者は成果物のない「労働」を売るしかないのだけど、形の無いものだから買い叩かれる。
というより労働のクオリティの判断基準が存在しないとも言える。
労働者本人が一生懸命働いているのが良、とされると差がつくので、労働時間で判断する。
ここに、明治政府の、というか産業革命以来の失敗があるように思ったんだけど、こういうことに詳しい本or人いませんか。
皆見ないようにしてるんだろうけど、近代のシステムって疲弊してるでしょう。
日本が近代化する前、江戸時代はどうなのかなと思って、ちょうど大河ドラマで八重の桜やってるけど、やっぱり今みたいに行き詰ってたんだろう。
でもそれって内部の問題というか「士農工商」のシステムの疲弊なのかな?。
外圧がかなりあって、対抗できなかっただけで
士農工商のシステム自体は人を幸せにするものだったのではないか?
「商」って「売る人」でそれは誰かがつくったものを右から左に流すだけの人なので卑しい。
(そう考えるのは差別ではなくて自制だと思うんだ。金の亡者にならないための。)
「士」は何も作らず、精神性。
「工」は頂いたものを加工する。
よくできてるなあと思う。
下に行くほど、「神」から「金」に近づき、卑しくなる。
なんか今ってそういうのがごっちゃになってて、「士」にあたる政治家が金儲けしたり、「商」にぶらさがっている奴が自分を奴隷じゃないと思わされている。
労働者=「工」と「商」の間だと思うんだけど、奴隷が職人になる(身分を上げる)ために働くのか、商人(身分を下げる)ために働くのかで方向性が違ってくると思う。
働かないと生きていけないと思うかもしれないけど、そんなことないよ。
何を食べても生きていけるし(食べられる野草の知識があるといいですね)、毎朝スーツ着て満員電車に乗るシステムから外れれば何を着てても関係ないのです。
税金はもう充分払いましたし、保険だって病気になったら死ぬから構いません。
…とこういう境地に立つと逆に、人間のシステムに入りたい自分に気がつきますね。
人は人との間に生きているんだな。
幸い私には、繋がってもいいな、って人たちがいるのでそのひとたちのために働いている。
グローバル何とかって象が頭の上で握手してるようなもので、蟻には関係ありません。踏み潰されることがあるかもしれないけど、生きるって卑小なものなので、仕方ない。