2013-08-26

百合disを読んで

なんつうかこう、自分土俵に乗った瞬間、判定が辛くなる人が偶にいる。

発達障害もかくやというエロゲヒロイン全般や、池沼しか思えない主人公が許容できるのに、百合作品となると許せない。

そりゃそうだ、期待値が違うものね。


お笑い中心の共通ルートから、突然シリアス()になる個別ルート

明らかに、お涙事件の都合のためだけに、突然歪みだす日常については、名作だと許容できるのに、百合作品では些末なことが気にかかる。

そりゃそうだ、期待値が違うものね。


それ自体は別に良い。

期待値は誰にでも存在する。

シリーズの名を冠しさえしなければ佳作、なんてのは山のようにある。

にも拘らず、百合レズゲイホモ、などのセクマイが絡んだ批評の大概がおかしくなるのは、「差別偏見単語を交えて批評する」からだ。

面白かった、つまらなかった、佳作、駄作だけでは大抵終わらない。

マジョリティ

妄想

セクマイ

差別再生

などの言葉で彩られることになる。

こうなってしまうともうだめ。

その人が、なんらかの表現を許せなかっただけなのか、作品が詰まらなかったのか、判断ができない。

しかし、こういう人は得てして、「名作ならまだしも駄作であり、その上~」と繋ぐ。

口上の上では、ゲーム価値判断と、セクマイへの偏見に対する憤りは、分けていますよーというのだ。

アホか。


分けられるわけないだろ


この作品は詰まらなかった、その上○○が許せないという論評は、大概においてその○○こそが元凶である

けれども、論じてる本人は、あくまでも結果だと感じているから、一所懸命ゲームが如何に下らないかを論じてしまう。

だってゲームが支持されてしまったら、自分が許せないと思っている○○が、許容されてしまうって事じゃないか

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん