2013-05-03

誰かに叱られるのも優しさかもなと思ったりの話

つい完璧主義になりがちで、そのせいで仕事は先延ばし、時間内に仕上げられない。遅れた上に程度の低い物を提出して、批判され、呆れられ、苦情を受けて、そこからさらに萎縮する。正しい対処は、完成度を犠牲にしてスピードを圧倒的に上げる。そして何度も他人の評価に晒されて自分仕事の質を改善していくところ。評価されることどうしても躊躇いが消せない。どうしても手落ちがないようにぬかりないようにしていないと怖い。裏を返せばそれは相手に文句をつけられたくない、傷つけられたくないという気持ちの現れだ。自分のだらしなさ、弱点や隙を見せることで、人として見捨てられるんじゃないかと怯える気持ちが消せない。他人の評価に怯えてしまう時には、叱られてるんじゃない、不平を言わせてやってるんだ、くらいの気持ちを持ちたいもんだが、消せないもんはしょうがない、そういうふうに自分は生まれ育ってきた。が、だ。実際、相手に文句や不満をぶつけさせる、批判させる、評価させる、というのも人としての優しさなんじゃないかとふと思う。叱るでも怒るでも、誰かが何かを言うのはそのことに関心を買われたということ。それがどんな表現であれ、言わせることで相手を巻き込むことになる。言われた時点で今度は、ボールがこちら側に来る。そして、それに対応する姿勢を見せる=ボールを打ち返す。そこまでが一セット。これでラリーが生まれてコミュニケーションになる。ボールが相手のコートに戻る。相手は自分言葉が届いたことへの満足感を得て、ラケットを下ろすか、さらに打ち返してくる。そういうゲーム提供する。そのためには批判を受ける精神的な強さが必要。それを打ち返す気力が必要。ただ、打ち合いが続けられれば、それは楽しい面白い。笑える楽しさや可笑しさじゃなく、状況が変わっていくことを目の当たりにする楽しさ。それに自分が関わっているという喜び。一番最初に評価されるとき、いつだってものすごく怖い。それは経験を積んだ仕事でも変わらない。ただ、そこを越えてラリーが始まったときに、面白味を感じる体験も重ねてきてる。他人と比べれば豆腐のように脆いメンタルでも、過去自分と比べると間違いなく強くなってる。その強さは唯一、このラリーを重ねた経験で支えられている。

完璧というのは一時的なもので、その瞬間に最高だった形、という程度の意味しかないと思ってる。完全な姿があるなんて幻想だと考えてる。例え、その場で完璧に仕上げても、より都合良く、より早く、より簡単に、より効率よく、より高くしていくために何ができるかと考えることが人間としての強みで、世の中を支える力なのだと思う。でも、変化し続けるのが本来のありかたなのに、変化に対応し続けるというのは気が休まる隙がないということでもある。だからつい、完成した姿を追い求めてしまうし、これ以上何も変えない、何も考えなくていいという究極の形に憧れてしまう。そうあってほしいと願ってしまう。自分一人のエネルギーは限りがあるし、それを全部使い果たしても片付かない問題も山のようにある。だからこそ、自分の抱える悩みや関心ごとに他人を巻き込んでそのエネルギーを分けてもらうことに意義がある。だからといって、こちとらかなり未熟な人間である。何でもかんでも全部考え抜く余力はない。考えることを休ませて欲しい、尽きない悩みから解放して欲しい。心も体もいつだって怠けたがってる。できることなら、いつだって心穏やかに過ごしていたい。結局、なにをどうやったって、完成などないと割り切る気持ちを育て、自分に問いかけ続ける。変化を止めない。自分一人でもラリーを続けてそこからエネルギーを取り出す。これで少しは心穏やかに自分の置かれた現状を見つめられる。

  • 完璧主義者なら他人が読みやすいように改行することも覚えてください。文章を書くことに関しては適当なんですね。

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