「機会平等」と「結果平等」という言葉があるが、日本人(特に教師)は「子供のうちなら結果平等が実現するはず」という幻想を持っている。
しかし子供こそ「むきだしにされた素養の塊」であり、大人同様に平等とはほど遠い。
子供の結果平等に夢を見ている教師や社会は、出来過ぎてクラスで浮いてしまう「浮きこぼれ」の存在を憎む。
浮きこぼれそうな子供たちは、その憎しみを受けないために、"普通の子"のふりをして埋没しながら義務教育期間を過ごす。
今の世の中で力を握っているのは元浮きこぼれや、普通の子に擬態していた子供が成長した大人たちだ。
能力主義、成果主義、見える化、リストラといった流れは、子供時代に不遇だった元浮きこぼれたちの「無能な多数派への復讐」なのではないか。
彼らはおのれの能力によって勝ち取ったものを絶対に他人にシェアしない。「天賦の才」を、自分のためにしか使わないのだ。
なぜ自分が選ばれ、才を与えられたのか、彼らは考えず、感謝も求めず、ただただ人生というゲームで無双プレイを楽しみ、憂さ晴らしをし続ける。
彼らが大衆を憎むのは、子供の頃に教師や社会によってされたことへの復讐だ。