2021-04-09

政治活動として、電動車椅子を駅員に運んでもらった顛末を詳細に公表することは妥当

この話もいくつかの段階があると思う。

 

① 電動車椅子ユーザーが、どの駅でも自由に乗り降りしたいと思うのは妥当か?

→これは当然妥当であり、異論を持つ人はいないだろう

 

② 電動車椅子を駅員に手作業階段を運ばせるのは妥当か?

→①と逆で、これを妥当だと思う人もいないんじゃないか

 

③ 妥当でない②の作業を、法律に「合理的配慮」があることを根拠として行わせることは妥当か?

→これは実際に体を張る労働者立場とそうした経験のない立場とで意見が分かれそうなところ。

 個人的には、今回の状況であれば、法的な義務はないけど本来あってほしい設備がないからって、その代償として危険作業をさせることが「合理的配慮」だとは思わないが…

 中には、「経営者設備を設けていないのが原因だから危険作業を行わされた人が経営者責任を問うべき、行わせた人は悪くない」という意見もあるが、それはテロリズムではないか

 

④ ③の顛末を「成果」として、それも模倣を期待して手法等を細かに公表することは妥当か?

→そういうことを行うこともあるだろうし、まあまあ妥当なのかな…

 

⑤ ④は、『共感』を得られるか?

→これは「妥当」かどうかの問題ではない。

 細やかに経緯や手法公表する以上、その目的共感を得て世論の支持を受けることだろうが、共感するかどうかを決めるのは記事に触れた人それぞれであり、教条を掲げて左右できることではない。

 昔だったら知らず、2021年社会においては、どうやら今回のようなやり方は共感より反発が大きかった。

 今や、「カスハラ」なんて言葉が生まれるようなモンスタークレーマー存在や、公務員批判の結果として行政機構疲弊災害対応学校教育もままならなくなったことが社会に知られるようになった。

 国力も衰退し、災害のたびに廃線が増えるの見て、鉄道も維持が難しくなっていると知られている。

 「全力で敵を批判してれば後は自然になんとかなる」と都合良くはいかないらしい、社会構成員としてそれでは不味いらしい、という認識が広まったのではないかと思う。今回の場合に直接当てはまるかは別として、社会にそうした流れがあるとしたら、共感を得るには流れを踏まえる必要があるだろう。

 

⑥ ③について反発があったとして、批判するのは避けるべきなのか

政治家政治活動として、明確な意志をもって、電動車椅子ユーザー代表して③を行った以上、その結果得られる共感も反発も、その政治家が引き受けざるを得ないと考えるのが妥当ではないか。もちろん脅迫なのは警察案件だ。

 また、それが代表としての言動であるならば、代表された側にも自然とその余波が及んでしまう。一方的で困るとは思うけど…

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