2019-07-31

同性愛であることや同性愛存在することを、話すと怪訝な顔をする人たち

同性愛についての話を、それほど私的ではない場所でいうと怪訝な顔をする人たちがいる。

たとえば、子どもに対しての教育の場とか、仕事中とか

普通に同性愛の人がどこかにいるわけで、その人たちについての話もそれほど私的じゃない場所でも出てくるのは同然だと思うわけだ。

公的サービスとか制度などの話も最近ありますし、話題として避けて通れない。

でも、なかには「ちょっと…そういうのは今いうべきじゃなくない?」みたいな顔をされる場合がある。

どういうことなのかとよくよく理由を聞いてみると、

つまるところ、昼間にちょっと"低俗","性的","アダルト"な話はすべきでないという。

どうやら、そういうふうに思う人にとっては、同性愛というのは、『自分ではそういう趣味はないけれども、世の中の一定割合の人がもっているアルシュの性的趣味みたいなもの巨乳好きとか、SMが好きとか、そういうレベルの話。居酒屋の話やバラエティとかで話していいけど、下ネタ的なジャンルに含まれる』というふうに思っているらしい。

同性愛ってのは異性愛とかわらず、誰を好きになるかという問題であるわけで、即ちセックス的な話になるわけではない。

もちろんセックス的な話は同性愛の中には含まれているが、それは異性愛でも変わらないわけだ。

同性愛下ネタ的だと思っている人ならば、誰それが結婚した、懐妊した、とかの話もそのような思考であれば、"性的下ネタ的な話題"にカテゴライズされるべきだが、そのことで怒っている様子はみられない。

何でこんな歪んだ認識になっているのだろうか。

しかしたら、そういう人たちにとって男女の関係も即ち下ネタ的で性的もの主題だと思っているのかもしれない。

じゃあ何で男女関係をそういう人たちが白い目でみないのかといえば、『自分自身が男女関係当事者だしそういう話題は嫌いじゃないし、結婚とか制度的に許されているから』ということなんではないだろうか。

そういう人たちは全部性的価値しか見ておらず本質的には性的かどうかが主題なんだけれども、

時代要請もあり性的ものはだめという規範も一応持っている。自分自身が当事者じゃない男男関係や女女関係結婚とか生活とかの話は別に聞きたくないし、性的な話だから駄目。一方男女の結婚とかは性的な話だけれども制度で許されているから外で話してもいい。

みたいな感覚なんじゃないかなと思う

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