はてなブロガー刺殺事件でブロガーやブックマーカーたちが「萎縮する」などと言ってるのをたまに見る。
しかしはてな古参たちは炎上案件を見るたびに「公開することのリスク」とか偉そうにご高説垂れ流してきたんじゃないのか。
今回の事件も「公開することのリスク」の一つでしかないのではないか。
なぜか「hagexさんのブログには何の問題もなかった」「狂った人間の通り魔的犯行だった」という現実逃避がはてなの総意になりつつある。
hagexさんは事実としてブログでネットウォッチをやってきた。たしかにhagexさんの文体はそれほど攻撃的なものでもなかった。けれどもとにかくブログという形で全世界に公開してきた。これは事実だ。
「全世界に公開している以上、批判や自分の望んでいない反応が返ってくることは想定しておき受け入れるべきだ」「誤読による批判や言いがかりも甘んじて受け入れるべきだ」「自分の望んでいない反応を受け入れる覚悟がないなら、全世界に公開するべきではない」等々……
たしかに殺人事件というあまりにも極端な形で「公開することのリスク」が現実になってしまったのは残念だった。
しかし今回の出来事を「hagexさんのブログには何の問題もなかった」「狂った人間の通り魔的犯行だった」などと言って、全世界に公開したネットウォッチブログがまったく何の原因にもなっていなかったかのように誘導して安心してしまうのが正しいことなのだろうか。事実としてhagexさんはブログで全世界にネットウォッチブログを公開していて、それが引き金となって事件は起こった。これは事実だ。
hagexさんはネットウォッチブログをやっていなければ殺されることもなかった。これは事実だ。ネットウォッチャーとして有名になりすぎた結果、狂った人間に目をつけられた。これは事実だ。
「発言には責任が伴う」意識の高い古参たちはいつもそう言ってきたはず。「hagexさんは殺されるほどのことはしていない」と言う人は多い。正直私もそう思う。が、世の中の殺人事件は割とつまらない理由で起こったりもする。「かっとなってやった」というやつだ。
全世界に公開するということは、自分の発言で「かっとなって」しまう読者もいるかもしれないということだ。それが「公開することのリスク」だ。かっとなってしまった人はもしかしたら誤読して言いがかりをつけてきたのかもしれない。書き手には何の責任もないのかもしれない。しかしそれですら「公開することのリスク」だ。何かを書いてそれが読まれた以上、たとえそれが誤読だったとしても書き手にも責任がある。はてな古参はいつもそう言ってきたではないか。
何かについて語るということはそれ自体が暴力性を帯びている。だからその暴力性に憤る人もいる。発言することには責任が伴う。「hagexさんは殺されるほどのことはしていない」というのはたしかにそうだ。しかしhagexさんがネットウォッチブログを全世界に公開していたこともまた事実だ。hagexさんは何もしていないのではなく、たしかに何かをしていた。それは事実だ。
今回の件で「萎縮する」などと言っている人たちは単に今まで覚悟もなくやっていただけだろう。他人に「公開することのリスク」を押し付けながら、自分では「公開することのリスク」を受け入れる覚悟がなかっただけだろう。
自分の発言の向こうに生身の人間が、感情を持つ実際の人間がいるということをいつも忘れるべきじゃないだろう。嘲笑や罵倒や中傷、こういったものがネットでは人気コンテンツになりがちだが、そういったネガコメもまた「公開することのリスク」にさらされているということだ。
文章を書くということは何かを型にはめるということだ。それは何かを殺すということだ。どんなに丁寧に書いたところで真に他人に寄り添うことはできない。ある断定がいつも誰かを傷つける。だからこそ他人を理解しようという真摯な態度が重要なのではないか。それなのにネットウォッチャーたちのやっていることは相手にレッテルを貼りバカにすることばかり。他人を思いやったり真面目に議論しようという意思はまったくなかった。敵やバカを見つけて叩きのめすただのお祭り。
しかしこういったネットウォッチも全世界に公開している以上、当然「公開することのリスク」を引き受けなければならない。自分を守れるのは自分しかいない。
今後も、定期的にウォッチャー系は刺されたり、殴られたりするんやろうな。 他人を踏み台にして儲けたら、恨まれるも無理は無い。 低能先生に出会ってしまう前にも、ヒヤリ事案は...