ってどこで決まるんだろう。何に影響されるんだろう。
けれど、自分の人生において異なる感性への受容性が全くない人たちがそれなりにいた。
人と自分の考え方が違うと「考え方が違うんだな」ではなくて「お前がおかしい」って人間性を否定する人達。
◯小学生まで
母にも祖母にも「なんでそんなことするの!どうして周りの子と同じように出来ないの!」「それは男の子がするもの」「なんでそんな頭おかしいの」とよく言われていた気がする。
あまり覚えていないけど学校の先生にも同様のことを言われていた気がする。
友達が自分の価値観を本気で否定してきたこともそういったことを見たことも記憶にはない。
◯大学時代
意見の相違はあっても「それって違うんじゃないかな。私はこう思うよ。」って感じだった。
バイト先の社員からは「まともじゃない」「他の人がやっていることができないの」「偏差値高いのに常識はないんだね」とか言われた。
バイトの件はそもそも法律に関わることなので受容性とかの以前の話なんだけど、ここでこれを挙げた理由としては彼らの主張が「これは塾バイトいう聖職であり人のためになることなのだから無休で当然。むしろ給料やってやってるんだから感謝しろ」ではなく、「みんながやっていることをどうしてあなただけ文句言うの」だったからである。
◯社会人になって
私が間違っているときは「xxxの部分のここに論理の飛躍があるのでは?」と指摘される。そこに人間性の否定は入らない。
付き合った人に「xxxってこういうものでしょ?それおかしいよ」って言われたことはある。
「あなたはそう思うかもしれないけど、私は違うんだよ。お互いの妥協点を探そう」って提案したたら不服そうにされた。結局別れた。
総じて、自分の人生において、感性が異なるときの相手の人間性の否定は、目上の人が目下に言うことを聞かせる、または同格においてのマウンティングのために使われている。
嫌な思いをした人たちが他の人に対してもこういったことをしないようにするのはある種当然の流れだと思うけど、他人に十分合わせられそうなのにしない人たちも沢山いる。
彼らはどうやってそれを身につけたんだろう。
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