考えれば考えるほどこの映画が無理。
ブライアン・シンガーのX-MEN1から好きでした。
X-MEN2も大好きです。
でもファイナル・ディシジョンで死んだ。
あのときは、『こんな中二病展開をX-MENでやるな!やりたきゃ他の映画でやれよ!』と思ったものですが、
まさかローガンでも似たような心境になるとは思わなかった。
あんなに絶賛されていて、見るのをとても楽しみにしていたローガンなのに。
見た後の心境としては、
でした。
スコットやローガンやジーンやストームが、それぞれの能力を活かして戦い、最後には、暗闇はあるけれど、希望もあるという終わりを
見せてくれるX-MENが好きだった。
それはファーストジェネレーションになっても変わらず、若きマグニートーやプロフェッサー、ビーストやミスティークが、能力を活かして戦う。
娯楽作の中にリアルを落とし込み、暗闇はあるけれど、希望はある。そういう終わり方を見せてくれた。
だけど『ローガン』は、ガラッとトーンが変わる。
娯楽の中にリアルを入れるのではなく、リアル路線の中に娯楽を入れた。
まるで社会派西部劇だ。パンフレットでは『許されざる者』からのインスパイアが語られていたけれど、まさにそう。
(付け加えると、シビルウォーはかなり現代の問題を取り込んでいたけれど、それでもまだあれは娯楽作品だと思う)
そして、社会派への転身のために、学園のキャラたちは殺され、しかもそれを行ったのがプロフェッサーであるという、救いのない設定になっている。
この設定、『ローガン』のためですよね。
閉塞感や、誰も助けに来ない、救いのない雰囲気を作るためだけに、ほかのキャラを殺したよね。
そもそも、
・ミュータントは世界中で生まれているはず。世界中の人々の飲食物に薬を混入して、ミュータント発生を防ぐなんて不可能だろう
・もし、可能であるとしても、遺伝子学を専門とする教授が何も気づかず見過ごしたのはおかしいだろう
・ミュータント誕生率が減少する一方なのに、X-MENは何も疑わずに看過したのか
・それに教授のテレパスが制御が聞かなくなったら、フューチャー&パストのように『他人の声が無差別に聞こえる』となるのが普通
・力を信奉するマグニートーに対して、力の制御を教えるのが教授だったのに、その教授を力の暴走で人殺した設定にするのが不快
・だいたい、アポカリプスで覚醒したフェニックスがいれば、教授の暴走を抑え込めるはずだろう
……等々のツッコミどころはあるんですが、設定の矛盾に関しては、X-MEN映画ではよくあることなので、まだ飲み込める。
ただ、そのすべての矛盾が、『ローガン』という映画の救いのない空気を作り出すための踏み台になっているのは無理。
学園のキャラたちを殺して、教授を人殺しにして、それで『ローガン』という名作を作りましたと言われても、受け入れられない。
……といっても、監督もヒュー・ジャックマンも、こういった批判は理解してるだろうとは思います。
『(『ローガン』で一番気にしていたことは)あらゆる抑制を解いて、このキャラクター(ローガン)に取り組むことだった。』
とあって、やっぱりそうなのかと思いました。
この映画は、ローガンというキャラクターのためだけに作られた映画で、
そのために、今までのお約束はすべて無視した。それが『あらゆる抑制を解いて』ということだと思う。
・マイノリティへの差別など、現実の問題を加味しつつも、あくまで娯楽作品という路線を崩さない
これはローガンというキャラのことだけを深く掘り下げて、ローガンというキャラのことだけを最大限に描くために作られた映画だ。
でも、ヒューがウルヴァリン役からの引退を表明している以上、次作はこの『ローガン』を踏まえてのものになるんじゃないかと思ってしまって
それが怖い。