いや、「あった」ことにされていた、が正しい。
横浜の住宅街の中にある市立小学校で、治安は良く、クラスメイトの半数が進学校の中学受験をするような小学校だった。
Aはよく遊ぶような友達もいて、他の生徒と友人関係において変わったようなところはなかったのだが、A以外のクラスメイトはAが「自分がいじめられている」という嘘の証言をして、教師の気を引いていることに辟易していた。
例えば、Aは「手洗い後の手についた水を他の生徒に向けて飛ばす」などの地味ないたずらをしょっちゅうしていた。
小学生のするようないたずら自体と、いたずらを受けた生徒がそれに対して怒ったり気持ち悪がったりすることまでは健全なことだと私は思う。
ただAはその後、自分がそのいたずらを受けたように話を歪曲し、一縷の真実だけを残して(Aのいたずらに対して怒った女児Bが「怒鳴った」)担任に泣きつき、担任はAの言葉を受けてBを叱るのだ。
小学生にとって担任の教師は絶対であるし、この例えにおいて「怒鳴った」こと自体は事実である。しかし、叱られる誰もがあまりに理不尽だと感じていた。
確かに教師の立場もわかる。担任は新任の若い女性の教師だった。
教師は1人の生徒に「いじめられている」と申告されたらもちろん深刻に受け止めなければいけないであろう。
ただ他の30名余りの生徒の真実をないがしろにしてまで対処しなければならないことなのだろうか。
何度もAのいたずらが先にあってのことだと訴えたけれども、先生は信じてくれなかったのだろうか。
中学受験をするような頭のいい児童は教師に対してもずる賢く、嘘をつくに違いないとでも思われていたのだろうか。
Aの主張するいじめは存在するということにして良かったのだろうか。
いじめの定義として、被害者側がいじめだと感じたらそれはもういじめなのだというが、そこに客観性は本当に存在しないのか。
本当に、誰一人として、Aに対するいじめなどしていないのに。
Aに対するいらだちを本当のいじめに発展させなかったかつての同級生を誇らしくすら思う。
Aは糖質 統合失調症の発言はウソというより妄想なので通常のウソより信じられ易い